14年前、真夜中の香港で助けてくれた、あなたへ
お元気にしていますか?
……と書いても、あなたは僕のことを、もう覚えていないかもしれません。
旅人が出会いを忘れられなくても、その人にとっては、旅人のことなんてすぐに忘れてしまうはずですから。
でも、僕にとって、あなたは今でも忘れることのできない存在で、あの日ちゃんと言えなかったお礼の言葉を、この手紙という形で、どうしてもお伝えしたいのです。
あれは14年前、香港の夜でした。
その冬の夜、僕は香港の中心部にある、重慶大厦のゲストハウスに泊まっていました。
あの頃の重慶大厦は、いかにも怪しげな雑居ビルで、その上層階には格安で泊まれる小さなゲストハウスがいくつもありました。
確か僕は、ビルの7階にある、1泊200香港ドルくらいのゲストハウスに泊まっていた気がします。
その出来事が起きたのは、香港で過ごす最後の夜のことでした。
つい名残惜しさから、遅くまでナイトマーケットを散策してしまって、僕がゲストハウスに戻る頃には、深夜1時近くになっていました。
エレベーターを降り、蛍光灯だけが灯った廊下を歩き、宿の入口のドアを開けようとしましたが、鍵がかかっていて開きません。
どうやら、門限があったようなのです。
ただ、チェックインのときに鍵を貰っていたので、それを使ってドアを開けようとしました。
ところが不思議なことに、その鍵をいくら回しても、入口のドアは開きません。
何度も頑張ってみたものの、どうしても開かないので、仕方なく宿のチャイムを鳴らすことにしました。
しかし、チャイムのボタンを押しても、なぜか音が鳴りません。
僕は深夜の重慶大厦で、途方に暮れてしまいました。
鍵を回してもドアは開かず、ボタンを押してもチャイムは鳴らず、こんな遅くに出入りする他の客もいない。
もしかして、朝になるまで、宿の中へ入ることはできないのだろうか……。
30分近くが過ぎ、そんな不安が頭をよぎった頃、廊下の向こうのエレベーターから誰かが降りてきました。
それは、一人のインド人の青年でした。
この階に住んでいるのか、彼は僕の前を一旦通り過ぎてから、僕が困っている様子に気づいたらしく、戻ってきて言いました。
「どうかしたの?」
拙い英語の単語を並べて、僕は答えました。
「この宿に泊まってるんだけど、ドアが開かないんだ」
それを聞いた彼は、ごく当たり前のことのように言いました。
「よし、わかった」
そして、彼は僕から鍵を受け取ると、ドアを開けようとしてくれたのです。
もしかすると、彼なら上手くドアを開けることができるかもしれない。
そんなことを思いましたが、やはり何度鍵を回しても、頑丈なドアはびくとも動きません。
そのうちに、彼が鍵を回す力が強すぎたらしく、鍵がぽきっと根元から折れてしまいました。
あとで鍵の費用を請求されてしまうかも……と心配になりましたが、頑張ってくれた彼を責めるわけにもいきません。
次に彼は、ドアを拳で勢いよく、ドンドンドンと叩き始めました。
「すみません!ドアを開けてくれないか!」
ドアまで壊しそうな迫力でしたが、それでも誰も出てくる気配はありません。
ひとしきり叩いてくれてから、彼は言いました。
「宿の電話番号はわかる?」
ガイドブックに載っていたことを思い出した僕は、それを彼に見せました。
すぐに彼が携帯で番号を押すと、ドアの向こうから、確かに電話の鳴る音が聞こえてきます。
しかし、いつまでも鳴り続けるだけで、誰も電話に出ることはありません。
それからしばらくは、彼がひたすら、ドアを力いっぱい何度も叩き、電話を諦めずに何度もかける……その繰り返しでした。
お願いだから、誰か気づいてくれ……。
そう祈ることしかできなかった僕は、一方で、静かに心震えていました。
こんな真夜中に、見ず知らずの旅人のために、こんなにも頑張ってくれる青年がいることに。
やがて、彼の努力が実を結ぶときが訪れました。
ようやく、宿の電話がつながったのです。
「今すぐドアを開けてほしいんだ!」
彼は電話の向こうにそう叫ぶと、僕の方を向いて言いました。
「あとは待っていれば大丈夫だよ」
そして、ふと気づいたように、彼は聞きました。
「君は日本人……?」
僕が頷くと、やっぱり、というように、彼は楽しそうに笑いました。
しばらくして、ドアの窓の向こうに、歯ブラシを手にした宿のおじさんが現れました。
「ドアを開けてくれ!」
彼が叫ぶものの、何が何だかわからないらしく、おじさんはぽかんとしています。
「彼がここに泊まってるんだ!」
その言葉に、やっと事情を察したらしいおじさんは、ついにドアを開けてくれたのです。
そして彼は、僕の代わりに、懸命におじさんに説明してくれました。
「どうしてもドアが開かなかったんだ。この鍵は俺が壊してしまった。彼は何も悪くないんだ」
それを聞くと、おじさんも眠そうな顔で言いました。
「いいよ、わかった。大丈夫だ」
彼は振り向くと、本当によかったね、という柔らかい表情で、僕に笑いかけました。
……こんなにも親切にしてくれた彼に、何かお礼をしなければ。
でも、そう思った僕ができたのは、ただこの言葉を繰り返すことだけでした。
「本当にありがとう」
その言葉だけ受け取ると、彼は最後にこう言って、立ち去っていきました。
「いいんだよ、このくらい」
彼の後ろ姿を見送ってから、伝えきれなかった感情が込み上げてくるのを覚えました。
そのとき、時刻はもう、深夜2時近くになっていたのです。
あの夜、僕を助けてくれたインド人の青年、そう、あなたに、もう一度ちゃんとお礼を伝えたくて、この手紙を書いています。
もしも、あなたがあのとき助けてくれていなかったら、僕はたぶん、朝まで呆然とドアの前に立ち尽くしていたことでしょう。
何もできなかった僕の前で、あなたは心優しいヒーローでした。
だから、もう一度だけ、この手紙で伝えたいです。
本当に、あんなにも頑張って、あんなにも諦めず、最後まで僕を助けてくれて、ありがとう。
その感謝の思いは、今も忘れることはありません。
……きっと、あれから香港も変わったように、あなたももう、香港の街にはいないのかもしれません。
でも、どこかであなたが、幸せに生きていることを願っています。
さようなら。
そして、お元気で。