果てしない想像から旅は始まる 〜鈴木亮平『行った気になる世界遺産』
つい先日、ふとした縁から、鈴木亮平さんの『行った気になる世界遺産』という旅行記の本を読んだ。
目次を開くと、カナイマ国立公園、古代都市チチェン・イッツァ、オルチャ渓谷、サマルカンド文化交差路など、世界遺産好きな鈴木さんらしい旅先がずらりと並ぶ。
ところが、次のページを繰ると、そこには思いがけない一文が書かれている。
実はこの本、実際に行って書くのではなく、頭の中の想像力で書いた、世にも不思議なフィクションの旅行記なのだ。
正直、この本を読み始める前の僕は、行かずして旅を書く……という方法に、少し疑問を抱いていた。
それは僕自身が、イメージで異国を決めつけるのではなく、実際に訪れてリアルに触れることの大切さを思いながら、いつも旅しているからだったかもしれない。
しかし、鈴木さんが想像力だけで書いた旅行記を一編ずつ読んでいくうちに、最初抱いていた疑問がとんでもない思い違いであったことに気づかされた。
なぜなら、そこに描かれていたのは、決して実際の旅にも劣ることのない、溢れんばかりの想像力がいっぱいに注がれた、豊饒な「旅」だったからだ。
それは確かに、鈴木亮平という稀有な旅人にしか書くことのできない、本物の旅行記だったのだ。
たとえば、童謡で有名なアイアイというサルが棲む、マダガスカルのアツィナナナの雨林を描いた旅行記がある。
もちろん、鈴木さんは実際にはマダガスカルを訪れていない。
でも、そこには不思議なリアルさと、まるで本当に旅に出たかのような、生き生きとした旅の感触がある。
それを生み出しているのは、なによりも世界遺産が好きという、少年みたいな鈴木さんの深い愛かもしれない。
鈴木さんの柔らかな想像力の淵源にあるのは、豊富な知識だ。
たぶん、この旅行記を書くにあたって、あらためて相当な勉強をしたのだろう。
知識があるからこそ、想像力は無限に広がっていき、誰もがすっと入り込める、心地良い旅の世界が描かれていく。
あたかも精神だけがマダガスカルへワープして、本当に熱帯雨林の中を歩いているのではないか……と思うほどに、臨場感に満ちた旅がそこにある。
アイアイを探し回る期待と不安がないまぜになった気持ちまで、読む人の胸に迫ってくる。
そして、旅人・鈴木亮平の果てしない想像力は、読者を旅のハイライトへと誘うのだ。
確かに、フィクションならではのご都合主義的なところがないではない。
これが実際の旅なら、楽しみにしていたアイアイに出会えなかったり、そんなにドラマチックな展開にならなかったりなんてことは、よくあるはずだからだ。
でも、これは想像力の旅なのだ。
豊かな想像から生まれていく旅だからこそ、イタリアのヴェローナではヒマワリのような笑顔に出会い、ミャンマーのバガンにはすっかり恋してしまうことになるのだ……。
この旅行記を読み終えたとき、ふと気づいた。
もしかしたら、ここに描かれた鈴木さんの旅にこそ、本当の自由な旅はあるのかもしれない、と。
たぶん、旅人は誰しも、自由を求めて旅に出る。
しかし、どれだけ自由を求めても、100%自由な旅はあり得ない。
お金、時間、年齢、立場、世界情勢……、誰もが様々な制限の中で旅をして、どこかで妥協しながら、かりそめの自由を味わっているに過ぎないのだ。
でも、鈴木さんの旅には、本物の自由がある。
愛と知識に支えられた、果てしない想像力から出発する旅は、どんな壁をも越え、鳥になったかのように世界中を自由に飛び回る。
この本の中でも、とくに読者の胸を打つのは、イエメンにあるシバームの旧城壁都市を描いた一編と、シリアにあるパルミラ遺跡を描いた一編だ。
そう、鈴木さんなら、平和な頃のイエメンやシリアの世界遺産だって、自由に旅することができるのだ……。
あるいは、鈴木さんの豊かな想像力は、俳優という職業とつながっているものなのかもしれない。
でも、この『行った気になる世界遺産』を読んで、僕もこんな想像力を手に入れてみたいな、と思うことができた。
きっと、実際に旅に出るうえでも、想像力は大切なファクターだと思うからだ。
あの場所へ行ってみたい……と、旅する自分を想像するところから、すべての旅は始まるのだから。
鈴木さんの旅行記が教えてくれたのは、想像の旅で終わるのではなく、想像の旅から始まることの素晴らしさだった。