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おやじの裏側 XX (20. おやじと修学旅行)

オレは小・中・高と修学旅行の経験がない。
時代的に考えてみて、小学校では修学旅行がなかったような気がしている。
 
とは言え、中学と高校では確かにオレは修学旅行に参加していない。

学力別クラス分け

オレの中学は、一学年10クラスで各クラス60人近く在籍していたので、学年で約600名いたことになる。
 
中学3年になると、朝と放課後に高校入試に向けた課外授業が実施されていた。勿論強制だ。費用は無料だから、全員が出席した。オレももちろん出席だ。
 
これがなかなか面白い。
中間試験や期末試験の度に、自分の点数でクラス分けが自動的に決まるのだ。
10クラス中8クラスが課外授業で学力別にクラスが分けられる。後の2クラスは就職希望のクラスだ。
 
この学力別クラス分けは、全ての教科で実施されたからすごい。
 
普通の授業のクラスは1組~10組で学力とは別にクラスが分けられていた。
それに対して、課外授業のクラス分けは、Aクラス~Hクラスで、2つの就職組は文字通り就職組だ。
 
人によっては、国語はA、数学はC、英語はBなどのようになる。
 
ちなみにオレは2学期の中間の後は、音楽がAになったことだけは鮮明に覚えている。

修学旅行不参加の鮮明な記憶

オレが中学生の時に、なぜ修学旅行に行かなかったのかよくは覚えていない。しかし、行かなかったことは間違いない。
 
何故そこまで記憶に自信があるかというと、代わりの旅行に行った記憶が見事なまでに細部にわたってしっかりと残っているからだ。
 
その年の不参加者は10数名だった。
 
ある放課後の時間帯に、オレたちはある教室に集められた。その教室には引率のY先生がいた。
 
「お前たちは修学旅行の代わりに、一日旅行に行くことになった」
 
その日になって初めて誰が修学旅行に不参加なのかが判明した。オレは特に秘密にしていたわけではなかったので、居心地が悪かったわけではない。
あったとすれば、何人かのいじめをする嫌な連中が含まれていたことだ。
 
SG荘から引っ越した転校先の小学校からのいじめっ子だ。
オレは中2の終わり頃まで彼らのグループに入れられていた。だから、いわば彼らの仲間のようなものだ。離れたくてもそれは困難なことだった。
 
その教室で、彼らはオレの近くに座った。
 
(ああ、やっぱり一緒なのか~)
 
オレの気持ちは盛り上がってはいない。
 
とは言え、その一日旅行は楽しみだった。旅行費用は親に頼まなくても良いからだ。
修学旅行に行けない生徒の一日旅行は市が面倒を見てくれるからだ。Y先生が話してくれたからその通りなのだ。
 
ここで余談だが・・・
オレはこの中2の2学期末になって、急に将来の仕事として教師になる決心をしている。
オレはこの件について、何かの記事で書いているかもしれない。書こうと思っただけでまだ書いていないのかもしれない。
 
とにかく、オレは教師になりたいと思った時に、この問題グループからの脱出を模索したのだ。
それはその年の年末から正月にかけての冬休みの間に強く決心したのだ。
 
オレはその頃は大切なことは「祈る」ということを教会で身につけていた。祈ることでアイディアが生まれるという確信だ。
 
というわけで、中2の3学期が始まると、すぐにオレはグループからの脱出に成功したのだ。
 
オレが決心した逃れるための基本は、殴られれば終わり、という事だけだ。怖い気持ちはあったが、命までは取られないという確信だ。
 
詳細は長くなるので書かないが、殴られる危険を感じる場面でオレは守られた。意外なことに、オレたちよりも一年先輩で親分的な存在だった。
その先輩が一言言っておしまいだった。
 
「おい、許したれ」
 
オレは助かった、と思った。何故か神に助けられたと思った。
 
オレはその先輩に、登校するとき何度か一緒になったことがある。
 
「おい、これ見てみ」
 
腰のベルトには、ジャックナイフが見えた。
勿論、オレはビビった。ドキドキした。
 
そういうことがあった後、しばらくして気が付くと、オレは勉強を一生懸命する友人ができて行った。この経験はオレの教師人生に大きな教師としての資質として役立った。いじめられる側のこともいじめる側のことも分かるからだ。
(ここらでこの余談は一段落とする)

楽しかった一日旅行

Y先生によると、目的地は汽車で行く先の神社だということだ。その神社は恐らく日本人で知らない人がいないほどの有名な某神社だ。
 
初めて行く場所なので、オレは楽しみにしていた。
当時は当然のように機関車はSLだ。窓を開けたりするとススがすごい勢いで顔に突き刺さる。そしてオレたちの顔を黒く染めてしまう。
 
オレの家は貧しかったのに、SG荘から通った小学校での調査ではいつも自慢できたことが一つだけあった。
当時の調査は、テレビがあるか、掃除機はあるか、ラジオはあるか、などだが、ラジオ以外は我が家には何もなかった。しかし、クラスのみんなが手が上がるわけではないから何とか我慢できた。と言ってもどれにも手を挙げることができないので、何となくみじめな気分だ。
ところが、最後の方で聞かれることに対しては自信をもって手を挙げることができた。誇らしかった。
 
「東京に行ったことがある人っ!」
いつだってこれに手を挙げることができたのはオレ一人だった。
 
だから、SLのススの威力は十分経験済みだ。
 
だからと言って、窓を開けないのは楽しみが減るような気がするのだ。
向かいに座っているのは、オレが後に仲間を抜け出した問題クラスメートだ。彼も楽しそうだった。
 
踏切が見えてきた。
その近くの子供と母親らしき女性が視界に入ってきた。
その家族が、オレたちが乗っているSLに向かって手を振ってくれた。
オレの向かいの一人が彼らに手を振った。笑いながら手を振った。
 
「旅行がこんなに楽しいのなら、修学旅行に行けばよかった」
 
窓を閉めた後で、彼がオレたちにそう言ったのだ。
オレもそう言いたかったが、お金がないことを知っているので、それは心に思っただけだ。
 
帰宅して、オレはすぐに母親に一日の楽しかったことを喋り捲っていた。
しかし、神社でY先生が手を合わせるように言った時に、オレはそれに従わなかったことは黙っていた。オレは一日旅行が神社と聞いた時から、その場面では拝んだりしないことを決めていたのだ。
 
オレがお土産を買って帰ったということは、旅行のために母親が小遣いをくれたということになる。だから、余計に楽しかったのだと思う。我が家では正月のお年玉以外は、父親の出張見送りにたまにもらう50円(もしかしたら5円だったかもしれないが)ばかりの小遣いしかもらってはいなかったからだ。
 
お年玉の額は決まっていた。
計算式が決まっていた。
⦅(年齢x10)+10 ⦆円=お年玉金額
今年貰えば、次年度のお年玉がいくらか分かっているのである。

ついに来た

今回の記事には、おやじの姿が見えない。裏も表も見えない。
しかし、ついに出現する方向で記事が進んでいくのである。
 
オレは高校で修学旅行の話が担任から発表された時、ついに来た、と思った。
 
オレはあることを決心していたからだ。
 
学校から帰ると、オレはおやじの狭い部屋に行った。
 
「おやじ、オレ、高校の修学旅行は行かないでいいから」
 
「そうなのか、お前は将来教師になったらいやというほど修学旅行に行くことになるしな」
 
「うん」
 
(「おやじの裏側」シリーズで言及してきたことだが、おやじとオレの会話の中で、「オレ」や「おやじ」という言葉を使うわけがない。一応、念のために記しておこうと思う。「おやじの裏側 (まえがき)」に書いたとおりだ)
 
オレはおやじが内心、ほっとしているのを感じていた。お金がないからだ。オレは家にお金がないことを見越していたのだ。
勿論、オレが黙って修学旅行に行く選択をすればどんな工面をしても行かせてくれることは分かっていた。ただ、おやじに負担をかけたくなかったのである。
 
修学旅行に欠席したのは、オレ以外にほんの数人だった。
 
中学の時のような市がお金を出してくれる一日旅行のようなものはなかった。行かない者は、毎日登校して自主学習をしたのだと思う。さすがに午前中で帰ることになった記憶がある。
他の兄弟が行ったかどうかは全く覚えていない。オレはオレが決めたことを実行したかっただけだ。

何の教師になりたいのか

オレは中学時代は英語の教師になりたいと思っていた。
 
しかし、高校に入ってから何故か英語への情熱が若干冷めて行った。
 
その冷めた頃、オレは数学に熱を入れるようになった。
それというのが、オレのクラスの数学を担当した女性教師のせいだ。
入学式が終わったばかりの数学の授業。その最初日に彼女が言った言葉に反感を持ったのだ。
 
「みんなの中で数学が嫌いな人は手を挙げてみて」
 
当然のように多数の手が挙げられた。オレも真っ先に挙げたように思う。
 
「今手を挙げた人は、数学の成績が良くない人たちですよ」
 
オレは何故かカチンと頭に来た気がした。
 
「(数学が嫌いでも点数が取れる生徒がいることを証明してやろう)」
 
数学の講師へのオレの犯行意識が芽生えたのだ。
 
オレは数学を逃げ手にしていたのは間違いない。
オレが通った高校は、いわゆる進学校ではない。
 
それでも、オレは、その日から、数学の予習や復習をばっちりして授業に臨むようになった。
それ以来、気が付くと数学がスキになっている自分に気が付いて、オレは一人で心の中で苦笑いだ。
 
「(あの先生に見事に乗せられてしまった!)」
 
この話はこれくらいにして・・・ww
 
助けられたM学館
結局オレは大学受験に見事失敗した。
 
高校時代に実はお金がなかったので、当時の旺文社の模試を一度も受けなかった。担任には、模試を受けないと内申書に響くぞと脅されたりした。
 
オレはそんなことをするわけがないと高を括ってはいた。
だから受験に失敗したわけではない。
自分の実力がなかっただけのことなのだ。
 
「行く大学がないけど、どうしようかしらね」
 
オレはその時、台所で茶碗を洗う母親の手伝いをしていた。
 
「どうしたらいいか、今のところ分からない」
 
「でも、神様がいい道を用意してくださるわよ」
 
オレは返事はしなかった。
丁度その頃、俺が住んでいた市がお金を出して浪人生が勉強できる(今で言う)予備校がある、という噂を耳にしていたのだ。
 
大学受験に失敗した友達とその噂を確認すると、確かな話だった。
公立の予備校の名前は、M学館。
学館の「入試要項」を貰いに、友だちと出かけた。
5月の連休の日に入学試験がある、ということだ。
 
オレはにわかに元気が出た。と同時に新たな不安も芽生えた。
M学館の入試に落ちたら・・・という不安だ。
それに合格したからと言って、そこまでの10か月余りの交通費、学費、考えれば不安はキリがなく湧き上がる。
 
M学館は市立なので、学費は意外と安価だった。とは言え、その当てはない。
 
オレは何と言っても牧師の息子だ。教師になることに決めてからは、ずっとそれに向かって歩んできたのだ。その歩みには、さすがに「祈り」が重ねられていた。だから、大学受験失敗は想定外の出来事だったのである。
 
オレは予備校の試験に合格することを祈った。
しかし、この「祈り」にも後ろめたさがある。祈ったからにはそのための勉強を必死でしたのだ。後ろめたさを抱えて合格はしたくなかったのだ。
 
すでに大学に合格した友人も、M学館の入試に来ていた。これにはびっくりした。
 
合格発表には、仲の良かった友人と見に行った。そして、初めて合格者の番号の中に、自分の受験番号を発見して大学に入ったかのように安堵したことを忘れることはない。

予備校の学費と交通費の目途

この記事のつづきは、「おやじの裏側 XX i(タイトル未定)」で書くことを考えているところだ。
その時には、「予備校の学費と交通費の目途」をスタートにするつもりだ。

楽しみにしていただければ、ありがたい。


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