「留学中の事件の数々 4 番外編」
文字数:7056字
(「番外編」では、これまでのアメリカ旅行のいろいろな側面を思い出しながら書いてみたい。今までも同じ思いで書いたのではあるけれども・・・)
1.リムジン
私は1988年の夏に妻と15泊17日のアメリカ旅行をした。結婚22年目にして初めての旅行らしい旅行だった。
マンハッタンのタイムズスクウェアに二2人で立った時、私はとても不思議な心の高ぶりを感じていた。それより6年前に1人で来た時には、それが見納め、初めで終わりだと固く信じていたからだ。イェローキャブがあの広いブロードウェイを所狭しと流れていた。また高級リムジンがマンハッタンでは当たり前のように長いボディをなめらかに滑らせていた。
1987年の夏、高校1年生40数名と共に、私はコロラド州デンバーにいた。1か月のホームステイをするためである。
(ホームステイを主として扱った「ワクワク ホームステイ 1~4」にデンバーでの件が多く書かれている。写真もいくつか載せているので参考になるかもしれません)
デンバーの住宅地は、私が嘗て訪れたテキサス州テンプルと一見似てはいたが、よく見ると異なっていた。テンプルでは隣同士に塀はなかった。Denverでは裏庭に木の塀があって自分の土地であることを主張していた。ブロック塀とは違って、温かみの感じられるものではあったが、アメリカで初めてみる風景だった。ヒューストン校外でみた高級住宅地とは大いに異なっていた。あそこは文字通り林の中の1軒屋といった風景だった。
コリンズ家から隣の家に行くのに、ややしばらく歩いて行かなければならなかった。「いらっしゃい」と言われていたので行ってみたのだ。そこは1階が総吹き抜けといった感じの、天井が極めて高い大きな山小屋といった感じだった。
デンバーでのホームステイ滞在中、ホストマザーのジャニスが慌てて外から帰って来た。
「ねぇねぇ、早く外に来てちょうだい。向かいの家にリムジンが止まっているわよ。中を見せてもらってあげるから来てごらんなさい」
私もリムジンの中を見たことはない。折角のチャンスだから、急いで外に出た。
黒塗りのピカピカに磨かれたリムジンが1台、犬のダックスフンドよろしく止まっていた。運転席からは、リムジンがぴったり似合うスラッとした背の高い紳士が降りてきた。まるで007の世界から飛び出したかのようだ。うしろのドアを開けてもらうと、ソファーのような座席がL字型になっている。座席の布地はビロードなのだろうか。肌触りがいい。後部座席近くには、バーカウンターがあり、ボトルがいくつか戸棚に並べられていた。前方にも運転席にも電話が置いてあり、まるでリビングルームに車がついているようなものだ。
マンハッタンの7番通りと44番街が交差するところで、赤信号になった時のことである。目の前には、リムジンのオンパレードだ。真黒あり、シルバーあり、グリーンありと、5台が連なっていたのだ。やはりニューヨークは凄い。
2.タイムズ・スクウェア
タイムズ・スクウェアは人も車も多い。そしてストリート・パフォーマンスだ。そこにじっとしていて通る人々を見ているだけでも飽きることはない。この人通りは、夜になっても絶えることはなかった。2017年に孫娘2人を連れて行ったタイムズ・スクウェアはまさに人だらけ。妻と行った1988年の時の数倍の人出だった。こんな場所だたっけ?と私は戸惑うほどびっくりしたのだった・
妻と私は47番街のタイムズ・スクウェアから少し入り込んだところにあるホテル・エジソンに4泊した。このホテルにはマンハッタンの香りが染みついていた。昔は日本から行く有名な人々がよくこのホテルを利用したものだ、と何かに書いてあったことを覚えている。ロビーに入っても、部屋で憩っても、マンハッタンを肌で感じることが出来る。
このホテルを拠点として、毎晩ミュージカルを観るため、エンパイア・ステート・ビルディングからの夜景を楽しむために、そして映画へと出かけた。
夜のタイムズ・スクウェアは、昼間とは別な味付けがしてあるように思えた。いつになったらこの人通りは絶えるのだろうか。そこから1つ中の通りに足を踏み入れてみると、様相を一変する。同じマンハッタンの別な顔が待ち構えている。そこを歩くと、いつ何が起こるか分からないような不気味さがある。歩く速度はいやがうえにも増し、早くブロードウェイに、そしてタイムズ・スクウェアに戻ろうともがく。
1982年5月に、生まれて初めて足を踏み入れたマンハッタンの場所は、42番街にあるバスターミナルだった。その時は、興奮と喜びで、その場所を駆けずり回ったものだ。
1988年に行ってみると、そこは薄暗かった。薄汚かった。妻は恐がって、早くこんな所から出よう、という。私はあちこち見ながら、こんなに汚かったっけ、こんなに怖い雰囲気の所だったっけと思っている。それだけ年を取ったからだろうか。それとも、ニ度目で冷静に見る目があるからだろうか。6年前に、自分の目と鼻の先で、警官に後ろ手に手錠をかけられる犯罪者を見たことを、すっかり忘れているのだ。時間という物は、いろいろな所で、人間を、人間の物を見る角度を、知らず知らずのうちに変えてしまうものなのだ。
そればかりではない。見る対象物にも、時間は変化を与えている。自由の女神がそれだ。マンハッタンの入り口にフランスから贈られたのが、1786年だ。妻と2人で行った時は、200年目のお色直しを終えていて、その6年前に一人で行った時よりも美人になっていた。これも時間が成し遂げた変化だ。もっと何十年も経つと、再び薄汚れた女神に変身していくのだろう。変わらないように見えたのは、海の色だけだった。しかし、ここも科学のメスを入れて調べれば、人間が海に対してしてきた仕打ちが、具体的な数値となって表されるはずだ。
3.ワシントンDC
アメリカの首都、ワシントンDCでも、時間の流れが直に伝わってくる。国会議事堂は、足場がかかったままの化粧直しの真っ最中だった。議事堂だけではない。ホワイトハウスにも足場がかけられ、素晴らしい白い肌に汚点のような姿をさらけ出していた。あと半年ばかりで、8年間も住み着いてきたここの住人を追い出すからだろうか。
テレビでは連日、次期大統領候補のデュカキス氏と、ブッシュ氏の話題で持ち切りだった。白亜の美人に変身するホワイトハウスの住人になるのは、いったいどちらだろうかと思いながらの見学だ。
その年の夏行く予定のホワイトハウスは、化粧直しも終わって、美しい広い館となっているはずだ。今思えば、私がISUに留学してから妻との旧婚旅行に出かけたあしかけ8年の間、ホワイトハウスにいた住人は、レーガン大統領だった。8年というのは、短くもあり、長くもある。その住人も当j日はブッシュ大統領になっていた。
ツアー・モービルでアーリントン墓地へ行ってみる。一度は行ってみたいと思っていたのだ。
それは故ケネディ大統領の墓に行くためだ。アーリントンの広大な国立墓地は、時の流れの厳しい現実を、否応なしに私たちに見せつける。1つ1つの墓石が全て時の流れを如実に示しているのだ。どんなに叫んでも、戻ってこない過去の遺物だ。
(「ワクワク~ガックシ~ルンルン一人旅 その2」にはワシントンDCが語られている。勿論、墓地もだ。まだ読んでおられなければ、是非お勧めしたい。写真もいくつか載せている。文字数は7000字強。)
故ケネディー大統領が暗殺された時は、私は大学生だった。私の部屋には、当時集めた新聞記事や、演説集のレコード(ソノシート)がある。息子が大学生の時、貸してくれと頼まて久しぶりに聞いてみたことがある。やはり過去の人だ。もうすでに別人の声かと思えるほど(ソノシートの声は)劣化していた。自分が大学生時代に、その演説を何度も何度も聴いたことが嘘のように思える冷静さが、私の心の中にあった。その頃は、聞くだけで「血沸き肉躍った」ものだ。1つ1つの言葉に、言い尽くせない感動を覚えたものだ。
その墓から少し離れたところに、弟の故ロバート・ケネディ上院議員の墓もある。彼も暗殺されたのだ。時代は少しずれているはずなのに、同じ「過去」という流れに全く乗っかってしまっているのだ。他の数えきれない無名戦士の墓も『過去」の中に埋もれ、墓石の場所は異なっても、もう同じ線上に立っている。誰が偉いだの、えらくないだのということは、もうどうでもいいことなのだ。
そう言えば、FBI本部の近くにフォード劇場があった。
あの有名なリンカーン暗殺現場である。その向かいには、ジョンソン家があり、リンカーンが運ばれて死を迎えた死の床がある。そこに流れた故リンカーン大統領の血痕は、すでにどす黒く変色してしまっていた。
4.ナイアガラ
朝4時半に起床してからタクシーを拾い、ダレス空港へ向かう。そこからデトロイトへ飛ぶのだ。バッファローが最終目的地だ。バッファローで降りる人の殆んどが、ナイアガラの滝見物に来た人たちだ。妻と2人でタクシーに乗るのはもったいないから、相乗りの相手を探してみる。2,3分も探していると、2人連れの女子学生だ。いかにもアメリカは初めてといった感じでおどおどした態度。私がそばに行くと、ギクッとして恐れるのではないか、と思いながら声をかける。
「ナイアガラに行かれるんでしょう? 私たちとタクシーを相乗りしませんか。タクシー代は割勘で済むし、分からなければホテルまで送り届けてあげますよ」
ほっとしたような表情が浮かぶ。少し離れたところにいた妻を見たからだろうか。タクシーの中で話を聞いてみると、やはり初めてのアメリカ旅行だという。次の日のフライトのスケジュールも頭にないほどに緊張している。
「助かりました。どんなにしてナイアガラまで行こうかと、2人で悩んでいた所でした。人に聞くことはできても、返ってくる答えがあまり早口で、何と言っているのかさっぱり分からないのです」
『旅は道連れ、世は情け』とは、昔の人はよく言ったものだ。
先に二人を下ろして、ナイアガラの滝近くのモーテルで旅装を解くと、私たちはすぐにナイアガラの滝見物に出かけた。
初めてのナイアガラの印象は、今もよく覚えている。
ミシガン大学のあるアナーバー(Ann Arbor)のバス停を夜9時の最終便に乗って、デトロイトのバスターミナルへ行った。そこでバスを乗り換えて、カナダ側に行くのだ。地下の長いトンネルを過ぎて、再び地上に出ると、もうカナダ領に入っている。トンネルのどこかで国境が接しているのだ。私にとって初めての、陸続きの国境通過ということになる。従って、バスはトンネルを出てしばらくすると、スピードを落として停止する。
「ハロー。今からパスポートの点検をさせてもらいます」
丁寧だが、有無を言わさぬ響きのする挨拶だ。1人1人のパスポートをチェックする。2列目に座っていた青年が、バスの外に出るように言われている。チェックはまだ車内で続いている。先ほどの青年が憮然として戻って来た。動きが荒々しい。どうしたのかと思ってみていると、荷棚から自分のリュックを下ろして、またバスを降りて行った。私の隣りの席の黒人のおばさんは、「きっとパスポートが不備だったのよ。あの人はアメリカに逆戻りよ」と言う。国境線の厳しさを肌でで感じる貴重な体験だ。
いよいよ自分の番が回ってきた。パスポートを出す。パラパラと頁をめくり、私の顔を見る。「バスを降りて、向こうのオフィスに行きなさい」
あの青年に続いて、バスを降りる2人目だ。不安気に降りると、もう1人の係官が、オフィスは向うだと言わんばかりに指さす。パスポートを握りしめて、オフィスに入る。
「ハロー、カナダにようこそ。何の目的でカナダに来ましたか」
「ナイアガラの滝を見物に来ました」
「何日くらいの滞在予定ですか」
「明日には帰るつもりです」
「OK」
3日間のビザがおりる。それを見ながらバスに戻る。もう1人が済むと全員終了だ。
さっき下ろされた青年を1人残して、バスは再び始動した。
うつらうつらしていると、バスの終点だ。
(実はこの間あちこちのバス停に停まり、別のバスに乗り換えたり大変だったのだ。アメリカ人でさえおたおたして私にどこから乗るのか、とか、どのバスに乗るのか、などと聞く始末だった。だから私はバスが停まる前の運転手がする聞き取りにくい車内アナウンスに必死で耳を傾けた)
何というバス停だったか覚えていないが、一応屋根付きの広いスペースだったことは記憶のどこかにある。午前1時頃のことだ。バスを降りてナイアガラ行きのバスの時間を調べてみると、始発は7時半頃だった。
一人の酔っ払いと、2人の子供を連れた女性と、私とがバス停でバスを待つ。野宿みたいなものだ。酔っ払いが女性にグダグダ言っている。女性は不安気だ。私の服装も変だったし、外国人だから頼りにもできない、と言った風だ。そのうち酔っぱらいは私の方にやって来る。「俺はチェコ人だ」と言う。「チェコにはタバコを吸う女はいないぜ。ところがアメリカはどうだ。男も女も吸っている。いやだね」強いなまりのある英語で寝せてくれない。あまりにしつこいので長いすに横になる。酔っぱらいは。今度は又女性の方だ。そのうち私は眠ってしまった。
1970年当時のアメリカは、若い人もそうでない人も、みんなパイプをふかしていた。1981年に行ってみると、パイプを吸っている人を見つけるのが大変だった。バスでも飛行機でも、喫煙席よりも禁煙席の方が多かった。グレイハウンドに至っては、後ろの方のトイレの隣りの4人分の席だけが喫煙席だ。寮では6階のパーティーでも、煙草を吸う人は数えるほどしかいなかった。
ついにナイアガラ行きのバスが来た。カナダの田園風景はとてもきれいだった。どれくらいで着いたのだろうか。バスを降りる時は興奮していて、時間などどうでもよかった。小高い丘の上のバス停だ。下を見ると、あのナイアガラの滝だ。とうとうやって来た!
上から眺めた滝は、思ったほどの大きさを感じることが出来ず、正直言って失望した。高いお金を使ったのに、と自分に不満を言う。でもとにかく下に降りよう。ケーブルカーで下に降りる。少し歩くと、すぐ手で触れることが出来るほどの場所に滝がある。まっすぐに落下していく。その水量に驚く。手を伸ばしてみる。触った。ナイアガラの滝の水で手が濡れる。滝つぼから立ち上る霧が、空高く入道雲のようだ。滝沿いと言うか、川ぞいは広い芝生の公園のようだ。やはり来て良かったという満足感が、あの滝の水量のように、心一杯に広がる。
1988年に訪れたナイアガラの水量も、18年前と同じく多かった。それよりも私を驚かせたのは、人の多さだ。この人数の違いはどうだろう。あの広いと思った滝沿いの広場には、レストランや土産店がたくさん、所狭しと建っていた。以前、人々はゆったりと歩いて観光していたものだが、人々の歩くスピードはぐんと増していた。せかせか歩くという表現で表すことが出来る。以前はすぐに乗れたケーブルカーも、切符を買う間にも列は刻一刻と長くなった。上のバス停が気になる。昔のままの素朴なバス停であってほしいと願いつつ、ケーブルに乗る。上がったところには土産店があった。辺り一帯にいろいろな店が林立していた。人間でごった返しだ。昔の面影はみじんも感じられない。
バッファロー空港を目指すタクシーは、同じモーテルに泊まっていた3人の男性の日本人学生と一緒だ。割り勘で相乗りしようと誘ったら、「いいんですか。お願いします」と返事が返って来た。
タクシーの運転手は陽気だ。1人で歌のサービスだ。
「ナイアガラは初めてかね」
「いや、1970年にきたから、これが二度目ですよ」
「ここも変わったろう。いろんな建物が増えて、のんびりと滝見物もできないよ」
「やっぱり変わったんですね。バス停が見当たらないんで、自分の記憶違いかと思いましたよ。あの頃は、バス停以外はなかったはずですよね」
「ああ、70年ならそうだね。今じゃ、あのバス停は隅っこに押しやられて、あのでかい土産店がのさばってるのさ」
時の流れは、以前私が訪れたことのあるあらゆる場所を変身させていた。場所だけではなく、訪れる人まで変身させていた。
*編集ミスで、一度打ち込んだ文章が大量に消去されてしまったので書き直しています。すみません*
完 (2023.1.24)
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