ワクワク サンタモニカ & ベニスビーチ in Los Angeles
文字数:7255字
上の写真は1970年に持ち帰った絵葉書です。私は生徒のためにと考えてカメラにはスライド用フィルムを入れていました。自分のアルバムにはわずか10枚に届かないほどしか写真がありません。でもスライドは狙い通り当時の生徒にはとても喜ばれました。ばんざい!
記事のタイトルを「2つのビーチ in Los Angeles」から変えました。 2022.7.22
この記事では、LAの有名なビーチのうちの二つ、Santa MonicaとVenice Beachに焦点を当ててみたいと思います。
Los Angelesへいざ見参!
ロサンジェルスに初めて足を踏み入れたのは、1970年6月のことだ。ミシガン大学への短期留学のため、初めての米国訪問の時だ。兄がLAに住んでいたので1週間ほど泊めてもらったのだ。
毎日のようにあちこち連れて行ってもらったことを覚えている。どこかの記事に書いたように、出かけるたびにドライブスルーの銀行で一日分のお金を下ろしていた。現金を失くすのを恐れていたのだろう。経験から来た防御らしい。
当時日本ではマクドナルドもなかったし、ドライブスルーという言葉もなかったと思う。初めてのドライブスルーのマックも兄に連れて行ってもらった。車の中で食べるマックは新鮮だった。
わたしはLAを訪問するのは、何度か覚えていない。生徒の引率でアメリカに行く時には、必ずLAに2泊くらいは滞在したからだ。その時は大体リトル東京、ディズニーランドといった観光目当てだ。個人的には1970年、1980年代後半に妻を連れての旧婚旅行、2016年の一人旅くらいだ。
サンタモニカ
2016年は奇しくもロサンジェルスのサンタモニカ方面の地下鉄が6月に開通したばかりであった。しかも終点がサンタモニカだ。これは行かないわけには・・・というわけで行ってきた。
7月に行ったのだから、地下鉄駅は新しいにおいがした。
本当はベニスビーチには是非行きたいと思っていたのだ。それは妻を連れてLAで過ごした思い出があるからだ。何も知らずにベニスビーチやUSハリウッド、チャイニーズシアター、そしてディズニーランドに手探り状態で観光したのだ。今のようにネットなるものがないので、泊まったモーテル(当時日本ではモーテルというと怪しいホテルと受け止められていた)で聞いたりなどして思い切った行動をしたものだ。バスしかないし、路線も分からないといった具合だ。だからこそ、思い出は濃いのだ。
地下鉄駅から海岸まで
さて、地下鉄の駅から出ると、人の多い方面に歩けば何とかなる。海に行く雰囲気が伝わってくるからだ。
歩道が既に波状に揺れる感じだ。勿論目の錯覚だ。そうこうするうちに「ocean」通りに出る。そこはまさにSanta Monica海岸への入り口の交差点だ。
交差点を渡ると、遠くに海が見えてくる。こうなるともうワクワクすること間違いなしだ。しかも初めてとなれば足は気が付かなくても速くなるってものだ。海に近づく橋へと続く。人の数が多くなる。右側には砂浜、その手前に駐車場。ワクワクが増大する。
この橋(橋というよりは、人工地盤の方が分かりやすいかも知れない)をずっと歩いて行くと、そこはまるで遊園地状態だ。子供を連れてくれば喜ぶこと間違いなしだ。
ルート66 国道66号線終点
この人工地盤上でわたしにとって最高の場所がこの写真にある。「ルート66」の最終地点なのだ。実は全く知らなかった。ロサンジェルスということは知っていたのだが、まさかのサンタモニカだとは・・・。
わたしが「ルート66」と出会ったのは、ノーベル文学賞を受賞したスタインベックの『怒りの葡萄』を読んだ時だ。長編ものだが、簡単に言うとルート66をおんぼろトラックに家族知人多数を乗せて、「乳と蜜の流れる地、カリフォルニア」目指してガタゴトと息も絶え絶えにもがきながら行き着くという話だ。豊富な心を打つ小話が好きだ。
あまりに好きすぎて、LAの骨董店でこれを発見してしまった。で、つい買ってしまったのだ。今確認してみると、7ドル99セントの値札。安い買い物だった。その時にアメリカ国旗のぼろいのも手に入れて部屋のアクセントに使っている。
street performers
人工地盤は上記の写真のようになっている。橋を渡りきるとそこは遊園地そのもの。
その先には大海原だ。海は無限の可能性を秘めた遊園地でもある。
これぞまさしくサンタモニカだ。遊園地そのもの。見るだけで楽しめる。音楽も聴き放題だ。
わたしはいつもその前に陣取って、ビデオに録る。ビデオにはその音楽を背景に周りの景色や聴き入っている人たちを写す。勿論、楽器ケースや缶詰の缶にお金を入れる。ビデオカメラを回す前に許可をもらうようにしている。
朝来た観光客(私も含める)はそろそろ帰ろうか、となっているのに、このストリートパフォーマーさんは準備の手際がまたへたくそだった。その記念に写真に撮ったのだ。こちらとしてはいい思い出になったから、それはそれでよしとしよう。
半日使ってたっぷりSanta Monicaを楽しんだ。おなかが減ったのでハッと気が付くとお昼過ぎていた。その日の目的はVenice Beachなのに・・・。楽しみ過ぎた。
Venice Beachへ
で、バス停へと歩く。バスの時間などどうでもいいのだが、待っていると目の前を走る自転車のような大人数のかたまりが車道を走っていた。テーブル自転車?私が名付け親。動画でお目せしたいところだ。
Venice Beach
Santa Monicaから2つか3つ目の停留所だったような記憶だ。バスからはどっと人が降りて行く。勿論わたしも降りた。周りを見渡すと心当たりの場所が目に入った。
約30年前の記憶
1987年だったか(いまだに思い出せない)妻との旧婚旅行で、何故か妻がVenice Beachに行きたいと言ったのだ。行き方など分からない。モーテルのフロントで聞いてみた。LAのダウンタウンからバスで1時間以上かかるかも、と言われた。別に目的があるわけでもないからバスに乗ってみた。
やはり言われた通りの時間がかかった。
どんなところか訳も分からず人の流れに乗ってみた。あちこち彷徨いながら気が付くと海岸が見えてきた。土産店等は当時からたくさんあった。
折角なので二人で砂浜に座り込んだ。
目の前にたくさんの人たちが陣取って日光浴をしていた。
「あそこ見て!」
妻が笑いながら私に声をかけてきた。
わたしは目が悪いので遠くが見えない。
妻の声に前の方を見た。(妻は指はさしていなかったのだ)
見てびっくりした。
生まれて初めてのTバックの水着だ。10代と思しき女性たちだった。
目のやり場に困って、砂浜を後にした。
あとはStreat Performerの音楽や手品のようなものを見て回った。
いよいよ帰る段になってバスの乗り場が分からない。わたしは見事な方向音痴。妻の記憶に頼ることになる。歩きまわってようやく見覚えのある場所発見。無事モーテルに帰ることが出来たのだ。その場所こそ、2,016年にバスを降りた場所だったのだ。
びっくりしたのは、帰国後テレビでわたしたちが見たそのperformanceが映し出されたことだった。そういうことには妻は長けていた。すぐに気が付くのだ。
New Yorkのグランドセントラル駅が映し出されると
「あ、ここ、ここ、あの時は恐かった~っ」
というのだ。
警官たち(2人1組)が悪そうな人を囲むのだ。次々と警官たちが駆け寄って来る。わたしたちとの距離はほんの10m前後だ。
わたしたちはグランドセントラル駅を後にした。
そんな話に夢中になると次々にいろいろなことが思い出される。
いよいよVenice Beachに
もうここまで来ればワクワクするに決まっている。人が集まっていればそこでは何かがあっているというものだ。その何かを知りたければ、人々の隙間から覗くしかない。
人だかりが・・・
凄い人数の人だかりがあった。
アメリカではみんな体がでかい。身長167㎝のわたしなど覗くのに苦労する。だからカメラだけ間にそっと入れる。それがだめなら、何事も無いかのように体を相手に寄せる。大抵の場合よけてくれるのだ。その隙間に体を割り込ませる。それでも輪の中で何が行われているのか全貌を知ることが難しい場合がある。
輪の中では入れ替わり立ち代わりブレークダンスの披露だ。みなとても上手だ。
わたしが初めてブレークダンスを見たのは、タイムズスクウェアの一角である。妻が興味津々で背伸びをして必死で覗いていたのが思い出される。まだ日本ではあまり知られていない頃だ。帰国後、テレビでそのグループが写し出されていて、我が家では勝手に大騒ぎだった。
グループのダンスが一通り終了すると、その中の1人がわたしの方向にやってきた。そしてすぐ目の前に座っていた女性の手を取って輪の中に導きいれた。次々とあちこちから連れて行かれる。観衆は大きな拍手で迎える。
3人を並べてその上を飛び越えるという技では大喝采だ。その勢いでさらに男性を引っ張り出す。
彼らを並ばせて団員の1人が奇妙な振り付けで踊る。引っ張り出された人たちはその真似事をするのだ。恥ずかしがっている場合ではない。アメリカ人はそんなことを楽しめる人たちなのだ。
そして最後はキッズが輪の中に引きだされる。大人たちの輪の中に引っ張り出されていささか緊張気味だ。白い服の団員に簡単な振り付けを教えられる。3人とも真面目そのものだ。一生懸命だ。それが拍手と笑いを湧き起こすのだ。
最後には側転だ。最初の2人は想像以上にうまくこなせていた。最後の一番真面目そうな男の子(ブルーのシャツに赤いパンツ)。とてもまじめに取り組んだ結果、手をつかないまま飛ぼうとして地面に落下。危うく顔から落ちるほどだ。教えていた団員は大慌て。群衆も一瞬静寂。無事と分かって大拍手。この3人目のこどもは結局みんなの拍手を独り占めしてしまった。
ここまでくるといよいよファイナルだ。わたしはビデオを回し続けること40分。殆んど全ての場面を収めることが出来た。ファイナルではお決まりのチップ大作戦だ。マイク片手の語りのうまい団員が、次々と群衆の中の誰かに照準を定める。すると係りの団員がすぐさま近寄っていき、チップを出すように仕向けるのだ。
「そこの眼鏡をかけてカメラを向けている君、日本人だろ。日本人はみんな金持ちだ。前に出てこないかい」
その日本人はわたしのことだ。黒人の団員が素早くやって来る。観客の目が集中してくる。大金をせしめようとあっという間に手を伸ばしてくる。「ノー、ノー、ノー!」必死で断った。勿論終わってからそっとかごにチップを入れてきた。
何しろ照準を定められた人は軒並み金持ちそうな人たちだ。そして平気かどうかはさておき、みんなの前で寄付をするのだ。それをいちいちマイクの団員が「50ドルだった」「彼はなんと100ドルしてくれたぞ」といった具合にあおる。
本当のフィナーレは前に出されていた人たちを並べて、その上を飛び越えるという大技だ。勿論飛び越えるふりをするだけなのだ。わたしたちは本当にすると思っていたから、がっかりよりはほっとしたのが本音だった。
そしてついに大きな群衆の輪は崩れて行った。
この演技も帰国後ベニスビーチのものとしてテレビで紹介されていた。
スケートボード
先ほどのパフォーマンス終了後、うろついていると別の人の群れがありそうな気配。
人の群れの中には大きなスケートボードの練習場があった。以前来た時にはなかったものだ。勿論無料だ。こんなに次々に滑り始めたりしていると衝突事故など起こりそうな気がした。
しばらくじっと見ていると、どうやら出番のルールがあるようで衝突回避の工夫がなされているようだ。と言ってもそれがどのようなものかは分からなかった。とにかく全員がそこでのパフォーマンスを十分に楽しんでいる様子が見る側にとっても楽しかった。
のちにカナダのバンクーバーへ行った時に、ダウンタウンの美術館前の広場(人の迷惑になる空間)でスケボーをして騒いでいる青年たちとはそこが違っていた。
ベニスビーチでのパフォーマンスは技術が優れていた。その技術を披露すると周りの見物客は感嘆の声をあげながら大拍手喝采となる。
動画から取った中でも極めて移りが悪いのが上記の写真だ。丁度なかなかの技を見せてくれたのだが、観客がお隣さんほどはいないのだ。拍手も喝采もなく、わたし自身も何をするところか分からないままに写していた。帰宅してから分かった程度だ。
ビーチも見なきゃ!
Venice Beachというからには浜辺も見ておかなきゃというわけで、動画を撮りはしたものの、波が荒いこともあって人はあまり泳いでいない。Santa Monicaの方がまだましだ。
わたしと妻は30数年前にどのあたりに陣取ったのだろう?全く思い出せない。マウンテンバイクやスケートボードの練習場がまだなかったことは確かだ。その代りにバレーコート(ビーチバレーではない)があったことは覚えている。しかしそのコートはない。ということは、もしかしてだけど・・・練習場に取って代わられたのかもしれない。
浜辺をうろついていると丁度真中あたりにlife guardの監視所がある。とても暇そうにしていた。もし何かあっても広々としていて間に合うのだろうかと心配してしまう。
ライフガードは車までかっこいい。これなら何かあればすぐに駆け付けられそうである。以前スカパーを視聴していた時にライフガードのドラマをたくさん見て、やはりカッコよかったことを思い出す。ドラマのように毎度毎度事件や事故が起きていたのでは困ったものだ。だから平穏無事が何よりなのだ。暇を持て余すくらいがちょうどいいのだ。
他のアトラクションも
アメリカならバスケットボール用のコートがあっても当たり前だ。
1970年にサンフランシスコのジャパンセンター近くの教会のアパートに泊めてもらったことがある。1週間ほどの滞在だ。その間にはバスケのコートが南面かあった。朝から晩までそのコートで黒人の若者が遊んでいた。当時は知り合いからその周りを歩きまわらないようにと強く言われていた。滞在中いつもびくびくしていた。
バスケのコートは妻と一緒の時にも同じように存在していた。そして同じようにいつも誰かが遊んでいた。あれだけ遊べば上手になるはずだ。
そう思いながらぶらぶらしていると、どこからか、歌声と喝さいが聞こえてきた。楽しそうな雰囲気だ。行ってみたくなるような楽しい声だ。
野外劇場だ。カルテットだ。柵の外から慌てて撮影開始だ。ラッキーだ。よく見るとどうやら地元のテレビ局の収録中だ。生演奏だ。何がいいって無料だ。
客が次々と入場してくる。この地域では知られた歌手たちなのだろうか。
舞台の裏は歩行者が行き交う。土産店も多く観光客が散策するには絶好の場所だ。妻と歩いた記憶がよみがえる。
キン肉マン大集合!
これ見よがしに筋肉を躍らせる。
スポーツばかりではないことが小憎らしい。店から流れてくる音楽かと思いきや、路上でのピアノの生演奏まで聴ける。通りすがりの人が弾きたければ、空くのを待てば弾くことが出来る。空港や地下鉄駅構内で聴いたことはあるが、こんな砂だらけになりそうな場所は初めてだ。
この通りはずらりとTattooの店が並ぶ。本当はその様を撮影したかったのだが、何となく怖くてできなかった。ここは全く気が付かないままビデオカメラを回していたのだ。
歩道の海側には殆んどがタトゥーの店ばかりだ。圧巻だった。タトゥーをするつもりがないけれど、覗いてどんなトレンドがあるのかを知りたい衝動にかられたが、やはりちょっと怖くてやめた。
30数年前と違って、今回は帰りのバス停を見つけるのに苦労しなくて済んだ。それだけ便利になっていたということだ。
一日の散策、お疲れさまでした。
その日の夕食は、ハリウッド地区のホテル近くのマーケットで食材を手に入れてレンチンして食べたと思う。もし記憶違いなら、近くのバーガーキングでビックホッパーに食らいついたに違いない。
留学中にグレイハウンド・バスの停留所はバーガーキングが必ずあって、好きになったのだ。留学を思い出す一つの強烈な食事アイテムなのだ。
最近日本にもバーガーキングが入ってきたと知って喜んだ。だが、まだ一度も食べたことがない。近くに店がないのだ。
完 2022.7.18
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