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チップ騒動 4 (ジュリアード音楽院)

以前、知人をアメリカに連れて行った。
 
New Yorkでのこと。
どうしても行きたいところがあるという。
目的地はジュリアード音楽院ということだった。
私は仕事柄、その名前は耳にしたことがあった。
知人は当然音楽に造詣が深かったのだろう。

New Yorkのあちこちを案内して、ついに目的地のジュリアード音楽院に行こうということになった。
地下鉄に乗る手もあったのだが、当時はまだ地下鉄は危ない印象が強い乗り物だった。そこで私はタクシーで行くことに決めたのだ。
 
タクシーだって100%安全というわけではなかった。油断大敵なのだ。
 
私は油断せずに、乗ったとたんにまず運転手の顔写真とナンバーをメモした。後ろに乗っていたので、それらの情報はきちんと写真付きで示されているのだ。
その情報を元に、運転手に少し話しかける。私はきちんとあなたのことを注視していますよ、という脅しみたいなものだ。
 
62丁目にあるリンカーン・センターが目に入れば、あとは楽だ。
 
「丁目」は東西に延びる道路で、「番街」は南北を走る。
東西に延びる道路は十字路間が長い。それに対して南北に延びる道路は短い。
 
それを頭に置いておけば、タクシーに騙されることはない。
 
ところが、私たちが乗ったタクシーは何を考えているのか、私は何となく怪しい雰囲気を感じ取ってしまった。
 
機嫌よくすいすいと車を走らせる。
私たちが泊っていたホテルは、(よく覚えていないが)36番ストリートの2か3番街にあった。そこからタクシーを呼んで乗ったのだが、最初はストリートを西側に向かって走らせてもらったが、こちらが何も言わないのに北に方向を変えたのだ。
 
これは目的地の位置が分かっているな、と私は感じたので余計に警戒をする気になった。
それというのも、New Yorkのタクシードライバーは外国から出稼ぎにきた人が多く、本当はマンハッタンの道路事情を熟知していないものもいるのだ。

乗ると最初にドライバーに「何番ストリートの何番街」のように伝えると、さすがにドライバーも分かる。ただ問題は、ワンウェイが多いことだ。車線が多くてもワンウェイになっていたりするのだ。それがドライバーを悩ます。客もそこまで熟知しているわけではないので、ドライバーにとって付け入るスキがあるかもしれないのだ。

ようやく正しいアベニューにタクシーを口で誘導し、私が道路事情を分かっていることを知ってもらうように工夫してみた。
 
ドライバーは「OK,OK」(分かった、分かった)という感じで軽く受け流して運転を続ける。
 
しかしこのドライバー、何を思ったか私が言ったよりも前の角を北に向かってひた走るのだ。
 
「さっき、私が言ったのとは違う所で曲がりましたね」
 
私は少し強い口調で文句を言った。
 
「いや、こっちを通る方が早く着くんですよ」
 
ドライバーはうそぶく。それこそが彼がごまかそうとしている行動なのだ。
 
それでもばれたことに気が付いたのか、私が言った方の道に車を入れたのだ。
 
私は気を抜くことはない。
 
それなのに、ドライバーは懲りずにまたずるく動く。
 
曲がらないといけない角をスルーしてしまうのだ。
 
「通り過ぎましたよね」
 
ドライバーは何も言わない。
 
「次を右折して元の所からジュリアードへ行く角を曲がってくださいねっ」
 
ドライバーはここでも何も言わない。
 
それでも私の言った通りにタクシーを動かした。
 
そしてついにジュリアード音楽院に到着だ。
 
私は知人に音楽院に着いたらすぐに車を降りて音楽院の中に入るように前もって伝えておいた。私の中である計画が思い浮かんでいたからだ。
 
知人たちは降りるとすぐに音楽院に駆け込むようにしてドアを開けた。
私はそれを見てから料金を支払う。
ドル紙幣は少しにして、残りを小銭で支払うのだ。その中にチップを加える。
 
それを数える頃には、私も音楽院に入っているという算段だ。
 
「音楽院は今日は休みだそうです」
 
先に入っていた知人は、私が音楽院の中に入った途端に駆け寄ってきて教えてくれた。
これにはまいってしまった。
 
「そうは言っても、まだタクシーが止まっているから、その辺りを見学させてもらおう」
 
受付に話す。
その辺を見るくらいなら構いませんよ、というのが返事だ。
仕方なしに、その辺にあったベンチに座ってしばしのおしゃべりタイムだ。
 
音楽院見学を希望していた知人も、その場所に来ただけで充分満足しているようなのがせめてもの慰めだ。
 
私にはあまり興味のない場所ではあったが、名前を聞いたことがある場所だったので、それなりに満足していた。
 
外に目をやると、いつの間にかタクシーは消えていた。
 
「あんな大回りをされたから、チップはほんのちょこっとしか渡さなかったんですよ」
 
「怖くないんですか?」
 
怖くないわけはない。チップ制度に真正面から考えた末の額にしただけだ。
そういって音楽院を出た。
帰りはやはりタクシーで帰るのだが、帰りのタクシーは問題なく私たちをホテルにとどけてくれたのだった。


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