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思わぬ再会(新渡戸稲造)

今朝(2024.4.11) 毎日新聞の「余禄」を何気なく読んだ。
 
退職前はこのコラムを欠かさず読んだものだ。話題が湧いてくるからだ。
 
今朝、そのコラムを読み始めて、懐かしい人物が紹介されていた。
 
新渡戸稲造だ。
 
私が初めて彼の名前に接したのは、大学2年の時だ。
 
大学に入学して、
私はすぐにESS(English Study Society) に入部した。
授業もほぼ真面目に予習して出席したが、
毎日のように部室に入り浸った。
古いレンガ造りの建物で、弾薬庫だったとの噂を聞いたことがある。
 
部活は楽しくて仕方なかった。
 
2年生の9月のことだった。
先輩から声がかかった。
 
「今度、地区の英語弁論大会に出てみないか」
 
その大会のことは耳にしていた。
自分が出ようなどとは考えたこともなかった。
人前で英語で表現するなど、自信があるわけがなかった。
 
「少し考えさせてください」
 
本当は考える気などなかったのだ。
そうは言っても、将来教師を目指していたので、
意外といいチャンスかもしれないと思い始めていた。
 
「やらせてください」
 
1週間後に先輩に返事をすることになった。
 
理数系大学を目指していたのだが、
残念なことに入試は不合格だった。
理数系を目指していた割には、
滑り止めに英語関係の学部を受けたのだ。
お金の問題だ。
我が家はお金がなかったのだ。
 
受かった大学は家から通えるところにあった。
おかげで家庭教師のアルバイトで
交通費も授業料も賄うことができた。
 
先輩に勧められた大会は
10月末か11月初めにあったような記憶がある。
その大会に出るためには
学内でのコンテストで3位以内にはいらなければならない。
先輩に「出ます」と言うと、そんな話を聞かされた。
 
それからはスピーチの原稿づくりだ。
勿論自分で考えなければならない。
原稿が出来上がると、
近所のミッションスクールを訪ねて
宣教師の先生を頼るのだ。
初めて会う宣教師は親切だった。
 
和英辞書から英語に直した場所は
何故か、殆ど訂正が入った。
これは私には新鮮だった。
辞書の硬さが失われるから驚きだった。
 
英語の原稿が出来上がると
それを家の近くの山に登って
大きな声で練習をする毎日だ。
 
  楽しかった。
  うれしかった。
  ワクワクした。
 
学内でのコンテストは
100人ほど入る大教室が使われた。
 
自分の番が回ってきた。
ワクワクどころではなかった。
ドキドキが止まらない。
 
「Ladies and Gentleman
スピーチが始まると、
ほぼ満席になった人々の顔が目に入り、
体中が震え始めて
そのあおりを受けて、口が思うように動かない。
発音には自信があったのに、
舌が動かない。口が固まる。
 
更に、足までがガクガクするのだ。
山で練習したのは何だったのか。
終わった時は
ひどい疲れを感じていた。

この経験のおかげで、スピーチ大会に出ても
身体が震えることもなく落ち着いてできるようになった。
 
スピーカーは何人いたのか思い出せない。
思いのほか多かったのが不安材料だ。
最後のスピーチがようやく終わり、
司会者の声が聞こえてくる。
 
審査員からの全体的なコメントの時間だ。
 
そしていよいよ入賞者の発表だ。
3位から順番に名前が呼ばれるのだ。
そして、一番最初に呼ばれたのが、
何と、自分の名前だったのである。
2位が同級生の女性だ。
1位は3年生の女性だった。
みんなESSの部員たちだ。
 
その予選会10日ほど後に
県庁所在地にある大学で決勝大会があるのだ。
それまでにまた山での必死な活動が始まった。
何度も何度も練習をした。
 
決勝大会では
私は運よく2位に入ることができた。
 
当時の入賞商品は大抵書物だ。
私にはそれほどありがたいのもではない。
 
数冊の本は、帰りの道を重くした。
うれしい商品ではあるが、本当に重いのだ。
 
『新渡戸稲造の生涯』

こんなタイトルの本を読みたいわけがないのだ。
しかも、私にとっては新渡戸稲造など
生まれて初めて知る名前だ。
 
家でその本を開けてみてがっかりした覚えがある。
そもそも「新渡戸」が読めないのだ。
「ニイワカト」と読んだ気がする。
小学生上級学年から中学1年くらいまでは
兎に角偉人伝ばかり読んでいたのに、
「ニイワカト」は読んだ覚えが全くなかった。
 
今ならスマホで調べればヒントくらいは手に入れられる。
しかし、もう偉人伝には興味はなくなっている。
と言うわけで(言い訳)、この本は本棚の肥やしにしまった。
 
引っ越しの度に、この本もまだ読んでいないという理由だけで
引っ越し荷物に紛れ込んできた。
 
そして、ついに数年前に行った
(多分)人生最後の引っ越しの荷物からは
かわいそうなことに、戦力外となってしまった。
 
ところで、この記事のタイトルは・・・
「思わぬ再会」だ。
 
その思わぬ再会は
2019年の夏に突然おとずれた。
 
私は2014年を皮切りに
毎年夏に北アメリカ大陸への
無計画一人旅を始めたのだ。
その旅に関しては
数多くの記事を書いてきた。
 
その一部を紹介すると・・・
「ワクワク ~」で始まる記事が多い。
「St. Jacobs」「バンクーバー カナダ」「UHS」パラマウントスタジオツアー」
「ブルージュ、ベルギー」「Santa Monica&ベニスビーチ in Los Angeles」
「アイスホッケー」「New York 見聞記 1-6」「トロント Canada」
「世界貿易センターで何が?」「アートな街を散策」「Huntington Library」
「はてさてTrump Tower」「孫娘と行くニューヨーク」
「The Broad」「UCLA」「Rodeo Drive &Melrose Ave.」
「Union Station Los Angeles」「Huntington Library」など
 
そしておとずれた2019年。
その場所は、カナダのバンクーバー。
あちこち歩き回った10日間。
目的の一つはUBC(ブリティッシュ コロンビア大学)のキャンパスだ。
 
バンクーバーは我が家の留学の原点の場所というのは
既に何かの記事に書いた覚えがあるので飛ばす。
 
この場所が私の人生最後のアメリカ大陸訪問になろうとは、
その当時は知る由もない。
 
コロナが私の意欲をなくしてしまったのだ。
 
UBCのキャンパスは広い、
一日中、歩き回ってきた。
そして見つけた日本庭園。
なかなかの出来栄えの庭園だ。
 



これが新渡戸稲造の「メモリアル ガーデン」だ。
 
昨日の「余禄」にこの文言が書かれていたのだ。
 
「願はくは われ太平洋の 橋とならん」
国際連盟事務局次長だった彼が
「二度とアメリカの土を踏まない」と宣言したことに言及したコラムだ。
 
当時「排日移民法」が成立したことに対する
日米友好に尽力した国際人新渡戸稲造をして言わしめた時代の話だ。
 
私はこの事実を知らなかった。
 
実はバンクーバー訪問よりもずっと前、
1984年11月1日に思わぬ再会をしている。
それはご存じの「5000円札」に描かれたからだ。
私はこの時に初めて彼の顔を知ることとなった。
英語弁論大会の賞品を捨ててしまったことを後に残念に思うことになった。
これを機会に、本棚から取り出して、
ちょろっと読むには読んだ、としか言えない。
折角の再会を無駄にしてしまった。
 
「余禄」での思わぬ再会に、「メモリアル ガーデン」(Memorial Garden)で
初めて会った日本が誇れる人物が
私の心の中に静かに存在してくれている。
 

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