車 の 傷
文字数:2623字
以前私の家族は買取アパートに住んでいた。いわゆるマンションである。新築の時に購入したのだが、その時に、住人全員がくじ引きでそれぞれの駐車場を決めようということになった。くじ引きの順番を決める予備くじ引きまでする念の入れようだった。
私の場所は幸運にも階段の降り口のすぐそばと決まった。そこは雨の日でもそれほどぬれずに車への出入りができる、皆も羨ましがる場所だ。
それから数年たったある日の朝、一つの小さな傷が出勤をするために車に近づいた私の目に入る。マンションは海岸のすぐそばに建っていたので、毎朝出かける前に雑巾で車をきれいにすることにしていたからすぐに目に入ってきたのだ。
子供の悪戯くらいに思っていたのだが、意外な展開となる。次の日も、そのまた次の日も車の傷は増えて行く。日の数だけ傷の本数が増えて行くのである。もはや子供の悪戯でないのは明らかとなる。
毎朝、新しい傷が自分の愛車に一本ずつ増えて行くことを想像していただきたい。たとえおんぼろ車であっても(私の車はまさにそのおんぼろ車だったが)、耐えられないことだ。
犯人が分からない。夜出没すること以外のヒントは全くない。明らかに私の車を狙っている。しかも、私にはそんなことをされる理由が思い当たらない。
唯一できることと言えば、車にカバーをすることぐらいだ。そんなことが効き目を発揮するなどとは思えないほどの傷の数だ。それでも何もせず手をこまねいているわけにもいかず、カバーをしてみることにする。
翌朝、カバーをはずして、車をなめ回すようにして新しい傷を探してみる。カバーの効き目が表れるとは思っていなかっただけに、新たな傷が見つからなかったことに安堵する。久しぶりに明るい気持ちになって車を発進させる。
車の運転は前を見るだけでは駄目なことは、運転をしたことのある人ならば誰にとっても当然のことだ。そこで後ろの様子を見ようとしてサイドミラーに目をやる。当時のミラーは今のように車のドアーについているのではなくて、車の前方についているタイプだ。
そのサイドミラーに目をやると、一瞬何がどうなっているのか訳が分からない。それもそのはずだ。サイドミラーまでがミラー面を前方に向けているのだ。傷の代わりにミラーを動かしていたのである。
ほとほと困った私は、仕方なく徹夜警戒をする。傷をつけられ始めてから2~3カ月経ってからのことだ。
私たちが住んでいた階は3階だった。その3階の踊り場に座って、毛布を肩から掛けてじっと下を見る。退屈で虚しい一夜が過ぎて行く。4時頃になると近くの漁船のエンジンの音が海を伝って耳に響き始める。
この徹夜の見張りは何の収穫ももたらさない。誰も姿を現さなかったからだ。
ところが次の日の朝から新たな傷がつけられ始める。私には、自分が徹夜をすることを知っていたものがあるに違いないと思えた。妻と私しか知らない情報だったからだ。
誰かに話さなかったかと妻に聞く。ある親しい人物に話したという。その人がそんな悪戯をするはずがないのは明らかなことだ。そこでその人物と親しい人はいないか妻と考える。その時に一人の人物が浮かび上がる。近所の熟年女性だ。でも傷をつける理由がどうしても見当たらない。
そんなことを考えている間にも私の車の傷は増えて行く。カバーをした次の日の朝には、サイドミラーは必ず前の方を見ている。
業を煮やして一計を案じてみる。もう一度徹夜の警戒をしてみようと言うのである。妻を通して私の家族と仲の良い例の人にそのことを話す。
「今度また徹夜をすることにしたそうです。今度は警察に話して、捕まえたらすぐ110番通報をすることにしました。警察に連絡したらすぐ来てくれると言っているそうです」
私はこの情報をその人にわざわざ話せば、その人が車に傷をつけていると私が疑った人に話すだろうと思ったのだ。そうすれば私はその人を捕まえなくて済む。そしてあわよくば、その人は二度と傷をつけることがなくなるだろう。という希望的予測を立てたのだ。
この思惑があれほどうまく行くとは、実は私自身も考えていなかった。もし駄目ならさらにもう一度徹夜してでも、たとえ嫌なことでもその人を捕まえるより仕方ないと思っていたのだ。
これで話が終わったのではなくて、ここからが話の始まりと言ってもよいほどだ。
一度目の徹夜をした後あたりから、私たち夫婦は犯人と思しき主婦が、私たちに対してよそよそしくすることに気づき始めていた。そのことも彼女が犯人だと思わせた理由の一つである。
そこで私は家族全員に、特にその人には挨拶をはっきり丁寧にするように頼んだ。子供たちは近所の人たちに挨拶をきちんとしてはいたが、あえて今まで以上に大きな声でするように言った。
意識的に挨拶するようになってみると、相手は明らかに私たちを避けていた。私に出会うと、すれ違わないように別の道を通っていく。すれ違わざるを得ない時には、はっきりと顔を背けて行く。
それでも私たち家族は挨拶を続ける。意地になっていると思えるほどだ。挨拶を続けるしかことを解決する術はないと思ったのだ。
確かにその人に直接抗議しても傷はつかなくなったかもしれない。しかしそれでは円満解決とは言えない。お互い近くに住む限り円満解決をしたかったのだ。挨拶で解決するというアイディアは父から学んだことだ。
私と同じようなことが、私の子供時代にあった。父はよくその時のことを話してくれた。いくら挨拶をしても、相手は顔をそむけるだけでどうしようもなかったというのである。それでも挨拶を一方的に続けると、ついにある日、挨拶が返ってきたとのことだった。
私は相手の主婦から挨拶が返って来た時の喜びを忘れることが出来ない。意識して挨拶を始めてから、6カ月以上経っていた。挨拶を交わしてくれたその日から、私の車への傷はつけられなくなったのである。意識する前から挨拶はしていたのだが、改めて挨拶の力を思い知らされた。
私は神との関係を続けるために、第一に考えているのは祈るということだ。神への祈りは神への挨拶だと考えている。この挨拶を続ける限り、神は挨拶を返してくださるに違いないのだ。挨拶が帰って来るならば、私の心の中は平安に満たされるのだ。この平安こそが人間だれしも求め続けるものなのである。
そういう心の状態であれば、私の心の中を満たしている平安は、私と接する人にも分けられるに違いないのだ。