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中国人留学生

私が初めて中国人と話したのは、アメリカに留学した時だ。
春の学期が終了した後に、2つ目の学生寮に移った。その寮は何故か女子寮だった所だ。秋の学期と春の学期が終われば、長い長い夏休みに入る。
 
学生たちは一気に故郷目指して移動を始める。
私がそれまでいた寮は、男女が住んでいる。偶数階が男子学生、奇数階が女子学生が入っている。
原則として、20歳以上の大人の寮だ。と言っても結構子供っぽいパーティーフロアだった。
 
そこから前の学期まで女子寮だった寮に男子学生が収容される。
カフェテリアが開いていたか、自炊だったかよく覚えていない。
自炊をした記憶はあるにはある。
それはインド人留学生が作るいろいろな種類のカレー料理の匂いだ。
彼らは基本的にカレーを作っていた。
 
その隙間をぬって、私はステーキを焼いたり、何かわからないものを作ってみたりした記憶が残っている。
 
女子寮だったからかどうかわからないが、バスタブがあったのには感激したものだ。
 
そうは言っても、中国人留学生と一緒に食事をした記憶があるからには、カフェテリアが空いていた日も多くあったに違いない。多分平日にはカフェテリアでの食事だったのだろう。
 
何回か食事をしていたのだが、同じテーブルの東洋人が中国人だとは知らなかった。韓国の留学生と思いきや、ある日、急に目の前にいた二人が中国人(レッドチャイナ)だということを、日本人の留学生が教えてくれた。
 
いろいろ話をするチャンスがあるにはあったが、彼らはなかなかおしゃべりをしてくれなかった。口が重いという雰囲気だ。人柄なのか、国民性なのか、私なりに気になっていた。
 
同じテーブルには台湾からの留学生もいた。彼らは中国人とは当然のように中国語を使っていた。私には当然分からない。
 
「本国にいた時には、アメリカは貧乏国家だと習っていたからニューヨークの空港に着いた時にはびっくり仰天だった」
 
彼らは中国では、貧しい貧民窟のような映像を見て教育されてきたということだった。
 
アメリカに着いてからは、1週間に一度、レッドチャイナの当局の人に報告をしなければいけなかった、との話も耳にした。何しろ、中国本土からの留学生はエリートの時代だ。
 
それでも、初めてみるアメリカの姿にびっくり仰天したのもうなずける。今とは違うのだ。スマホの時代には、さすがの中国でもすべてを覆い隠すことなどできない話なのだ。
 
彼ら二人は、帰国の時に、逃げたという話を私が帰国してから友人の手紙で知った。台湾に逃げたというのだ。お見事っ!
 
(このあたりの詳しい話は「留学ってきつい、楽しい 1~2」「留学中の事件の数々 1~4」のどこかに詳述している)
 
日本に留学してきた中国人とも接点を持ったことがある。
 
当時住んでいた自治体が外国人留学生のお世話をする人を探していることを偶然知ったのだ。
 
偶然と言っても、自分が留学した時にアメリカ人からたくさんお世話になったことを思い出して、何らかの形で恩返しをしたいと考えたのだ。
 
そこで当時ネットが一般的になり始めていた時に、検索をして自治体の取り組みを知ったのだ。もしかしたらネットではなく、自治体のお知らせパンフレットから探し出したのかもしれない。
 
私は早速手紙を書いてみた。
 
説明会に出席すると、ある留学生を紹介された。
 
私はだれであれ、紹介された留学生を(本人がよければ)受け入れるつもりだった。
 
そして紹介されたのが、某国立大学工学部在籍のTくんだ。
彼はまじめそうに見えた。
そして、真面目だった。
 
私のマンションに訪ねてくれたこともしばしばだ。
 
時には、私が一人暮らしの時に、夕食を料理してくれたりした。
彼の料理は豪快だ。
中国の雰囲気たっぷりだ。
炊飯器に肉の塊をぶち込む。
中に入れる調味料も豪快にぶち込む。
あとは炊飯器を作動するだけだ。
 
これはおいしかった。
私はその後、真似をして炊飯器を使って
Tくんを懐かしんでいる。
 
彼とは2泊3日の旅行もしてみた。
自治体の係の方に許可をもらって出かけた。
もう売り飛ばしたが、自前の別荘で過ごしたのだ。
彼はかけ流しの温泉を楽しんでくれた。
昼間は車で観光資源に大接近だ。
滝を目の前に見ながら食べるソバは最高だ。
 
日本語がいまいちだったTくん。
そんなコミュニケーションは英語。
そのつもりが、Tくんは英語もいまいち。
そこで登場するのが
お互いの筆談。

共通の言語は
当然のように
漢字だ。
 
漢字を書けば意思疎通が
思いのほかできることに気が付いたのだ。
 
2年後には、彼は大学を卒業し、
母国へと帰って行った。
 
「遊びに来てほしい
 
行く道程を聞いてドン引きだ。
 
上海までは飛行機。
そのあと汽車で10時間。
そのあとはバスで数時間。
そして歩きだ。
 
さすがに行く勇気を失ってしまった。
 
彼が帰国してからも、しばしばメールが届く。
そのうち、メールも途絶えがちに・・・。
 
数年後に、
久しぶりのメールが届いた。
彼のメールは
たどたどしい日本語と
たどたどしい英語混じりだ。
 
「○○さん、ぼくは結婚した」
「○○さん、ぼくの奥さんの写真」
 
結婚式で写した写真がメールで送られてきた。
 
やはり行けばよかったかな~!
行きたかったな~!
 
実は私は彼にメールを送るのを躊躇している。
彼を私の所属する教会に連れて行ったことを思い出してほしい気がする。
彼にとっては勇気がいったかもしれない。
教会では一番後ろの席で
小さくなっていた。
教会では、私はあえて彼を紹介しなかった。
彼が紹介してほしくなさそうだったからだ。
 
それが中国本土の人かもしれない。
彼は国の主席を信頼している様子だった。
 
日本と中国がうまくいっていない時代。
メールしたくても
迷惑がかかりそうでメールできない。
考えすぎかもしれないが・・・。
 

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