馬日記・その6
前回からの、BrazilのRainbow Gathering に行ったお話の続き。
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=当時友人たちへ送った、メールの本文の続きに戻ります=
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長距離バスを降りた後は、ローカルバスを2本乗り継いで、地元の人のジープをヒッチハイクして、山の麓まで連れて行ってもらいました。そこから、大きなリュックを担いだまま、山をひたすらに歩いて登って行きました。そして、ようやく、日が陰り一番星が輝き出した頃、その薄暗がりに、人々のシルエットが映し出されるのを見つけました。人々の輪の中には、火が焚かれていました。「Welcome Home !」と、声がこだましてきました。ぼくたちは、歩み寄ってきてくれた人たちとハグを重ね、そのままその輪に加わり、火を囲み座りました。ついに、Raibow Gathering へと辿り着いたのです。
到着した次の日の朝、辺りを散策してみると、奇麗な川があり、川原は見事なビーチになっていました。ここでは、みんなが、全裸になって泳いていたことには、はじめのうちはどうしても慣れなかったのですが、いざ素っ裸で泳いでみると、それは気持ちの良いものです(なかには、一日中、全裸でいる人もいましたが)。奥に沢を進んでいくと、川幅が広がり、泳ぐのに最高な大きなプールになっている場所がありました。川原には、キラキラと、クリスタルがいっぱい落ちていました。
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ぼくたちが着いたばかりの頃は、メイン・サークルの輪は、約50人ほどの小さなものでした。その輪は、満月に向かって成長していく月齢とともに、大きくなっていきました。一日に2回の食事は、その時ごとに、任意で集まった人々によって作られました。キッチンに集まるみんなは、自発的であるからに、いつだって、とても楽しそうに料理していました。Rainbow Gathering は平和を祈る集いでもあるので、酒、肉は暗黙の了解でなしとなっていました(これが、ぼくにとって人生ではじめての、ベジタリアン生活となったわけです)。食事の前には、みんなが一つの輪となって手をつなぎ、黙祷・祈りを捧げました。食事が終わると、楽団と一緒にメイン・サークルを廻るマジックハットに、食費のためのドネーションを募りました。ドネーションは、いれたい人は入れるし、ない人はまた次ぎの機会。そう、ここでは、すべてのことが、均一的な決まったルールではなく、ひとりひとりに見合った任意の意思によって委ねられていました。
夕食が終わると、さらなる薪がメイン・ファイヤーに焚べられ、音楽が鳴り始めるのです。ジャンべにディジュリドゥ、ギター、笛、タンバリン、などなど、各々が持ってきた世界中の楽器です。見たこともない楽器もいっぱいありました。そして、火を囲んで感情の赴くままに踊る! これが、生の音楽か! 打ち震えるような思いでした。生の音が、体の中で響いていました! 音楽が鳴っている一方で、ファイヤー・ダンスに、ジャグリングが始まる日もありました。
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音楽にしろ、絵にしろ、ダンスにしろ、アクセサリー作りにしろ、ジャグリングにしろ、それはもう、すごい人たちが、たくさんいました(南米の人は、アルテサニアと呼ばれるアクセサリーを作って売って旅をしている旅人や、 ジャグリングや音楽をストリートでやってお金を稼ぎながら旅をしている旅人が多かったです。その技術の、なんとも素晴らしいこと!)。この人たちは、ぼくがいままで接したことがなかった種類の旅人だったのです。旅先のどんな場所でも自分を表現していく術を持った、自発的な旅人です。旅とは、何か新しいものを吸収していくだけの受動的な場所ではなく、自分の内からの輝きを表現していくための場所でもあることを知りました。ぼくは、こんな人々と接していくうちに、自分も何か表現できる手段が欲しいと、強く感じるようになっていました……。
広大な自然の中には、はじめの頃は、みんなが集まるメイン・サークルと簡素なキッチン、それに、共同トイレが作られているぐらいのものでした。トイレといっても、木陰に、穴が掘られているだけのものですが。そして、大自然の中で、各々がテントを張って暮らしていました。中には洞窟を見つけて、そこに暮らしている人たちもいました。だんだんと、何もない所から人の住む場所に成長していく様子を目にするのは、実に面白かったです。人の数が増えるにつれて、テントも増えて、次第にテントで構成された集落のようなものが出来はじめました。「あそこのテント村には、ブラジル人の子たちが集まっていて、地元のお菓子を食べさしてもらえるよ」とか、「あそこのテント村には、アルテサニアが集まっていて、いろいろな技術を教えてもらえるよ」といった具合に、集落ごとに個性が生まれてきたのです。集落ができれば、その集落と集落との間を人々が行き交い、道が生まれました。山の草原には、毎日、新しい道を見つけることができました。人の数はどんどんと増えていき、キッチンを大きくしなければいけなくなりました。そうすると、気づけば、枝で組んでたくさんの大きな調理器具を干せる皿洗い場ができあがり、川原のすぐ側には、お茶が飲めるチャイ・ショップができました。ある時は、「ベーカリーができた」というニュースが流れてきたので、さっそく、見に行ってみると、川から石と泥を集めて作ったカマドからもくもくと煙が上がっていました。そこでは、パンやケーキ、そしてピザが焼き上がるのをこころ待ちに、いつも音楽が奏でられていました。小さな子供たちもいっぱい居たので、子どもたちが集まって遊べる場所も設けられました。そして、さまざまなワークショップも開かれました。ヨガ、メディテーション、マヤカレンダー、ジャンべのセッション、指圧、カポエラ、世界情勢についての話し合い、などなど。
面白いのは、ここでは、時計の指し示すところの時刻という観念がなかったので、待ち合わせは、「あの木の上に太陽が昇る頃に、ここでみんなで集まって、ヨガをしましょう」といった具合だったのです。瞑想の集いが朝早くにあると聞いたので、「いつ、どこで?」と訊いてみれば、「朝日が見えるあの丘で、朝日が昇るその頃だよ」、といった返答です。「太陽がずいぶんと高くなってきたから、そろそろ昼食どきかね?」と、太陽の動きは、確かに、ぼくたちに一日の時間の流れを伝えてくれていました。そして、月は、日めくりカレンダーのごとく、過ぎ去っていく日ごとの時間の経過を伝えてくれていました。新月から始まった集い、膨らんでいく月齢の経過は、全くもって電気の明かりが届かぬ開かれた山の上での暮らしに、確かな光りを注いでいました。夜が来るたびに、明るくなっていくその輝き。満月の頃には、月光の下で、本を読めることにはびっくりしました。そして、ここに集うぼくたちのエネルギーも、満月のその日に向かって、日に日に増していくのを感じるのでした。
そんな日々のなか、人々の数の成長と共に、メイン・サークルも、どんどんと大きくなっていきました。まさに、そこは、広場、という機能が宿り始めたのです。人は集い、お話しをしたり、サッカーしたり、ジャグリングをしたりと憩いの場になりました。時には、人々は、旅の不要な所有物や、自分で作ったアクセサリーや絵などのアートを、布を広げ並べ、物々交換をする商業の場(お金のやり取りもしない、ということも暗黙の了解になっていました)となりました。ワークショップをして、学びの場でもあったし、みんなで話し合いをする、議会の場でもありました。このようにして、このメイン・サークルは、みんなが一堂に集まって食事をし、歌って、踊って、祈りを捧げる日々のなかで、よりエネルギーに満ちた場に成長していったのです。ただの何もない大きな空間が、さまざまに表情を変えていく様子に、広場という機能の意味を知りました
(追記:ぼくは大学で建築を勉強していましたが、この場所が生まれていく過程を、とても、興味深く観察していたわけです。このプロセスをRainbow Gatheringで体感してからは、街の中心に広場があることなどの意味が、理解できるようになったのです。そして、このリアリティを持った学びが、ぼくの大学での建築の学びに対するモヤモヤを、払拭していってくれたのです。払拭というか、まったく違う方向へと行ってしまうのですが)。
ぼくは、洞窟の中で10数個ものディジュリドゥが吹かれるのを聞いて、大・大・大・感動して、そこにいた一人の人に、ぼくも吹けるようになりたいと懇願し、次の日に、何人かで竹を探しに山を歩き、そして、その竹でお手製のディジュリドゥを作ったのです! それはもう嬉しくて、嬉しくて、もう何時でもこのディジュリドゥと一緒にいて、練習をしました。音は鳴らなくても、楽しくてしょうがなかったのです。そこには、このディジュリドゥは自分で作ったんだ、という充実感も含まれていました。ここは、日中日差しがとても強いので、教えてもらいながらココナッツの葉で帽子も作りました(さまざまなことを教えてくれる先生が、周りにたくさんいたわけです)。Rainbow での滞在は、自分の手でものを作ることの喜びを知る機会でもありました。ものつくりの素材は、辺りを見回したら手にはいる身近な自然のものだということ。そのことも、なんだか、いままでに味わったことのない喜びでありました。いつか、ぼくも、川原の石や泥などを集めて、ピザやパンを焼けるようなオーブンを作れるようになれるでしょうか。
そして巡ってきた、満月の夜。場のエネルギーは、最高潮に達し、盛大に、音楽や踊りが繰り広げられました。 その翌々日には、山の麓の村に降りていき、地元の人たちの理解に感謝を込めて、さまざまなパフォーマンスを街の広場で行ないました。地元の人々と、Rainbow に集まった世界中の人々が織り交ざり、人々のこころからこころへと、虹のアーチが架かりました。
そして、ぼくは、Rainbow を離れる決意をしました。これ以上ないぐらいに心残りではありましたが、帰国の飛行機の関係で、ここを離れなければいけなかったのです。本当に素晴らしい場であり、本当に美しい人たちばかりでした。様々なことを感じ、学びました。深い所まで自分をさらけ出し、理解し、理解してもらえるファミリーだったのです。
ぼくが Rainbow を出たときには、、約1000人、44か国の、虹色の家族でした。
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=メール本文・ここまで=
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Rainbow Gathering で出会った人々は、一見、風変わりな人たちばかりでしたが、自分の好きなことばかりをやって生きている人たちでした。そんな人たちは、みんながみんな、キラキラと、とても楽しそうであり、魅力的だったのです。それなら、ぼくも好きなことやっていけば、楽しく生きていけるじゃん!と、単純にそう思ってしまったのです。そうしたら、就職活動のもやもやも晴れて、「うん、ぼくも、こっちの生き方の方がいいや」と、なんだか、とてもすっきりした気分になりました。それに、文明の全くない大自然の中でいっときを過ごした、ということも大きかった気がします。こんなにいきいきとした、生命に溢れた大地があるというのに、なんだかよくわからない社会のプレッシャーの下で、クヨクヨと毎日を過ごさなければいけないのだろうと、思いました。そんな楽観的な視点が生まれたことによって、肩の力が抜け、より自由に世界を飛んでいける気持ちになったのです。
1年後、晴れて大学を卒業したぼくは、再び、Rainbow Gathering を目指して、翌年のギャザリングの開催地であった、コスタリカへと旅立ちました。そこで、ブラジルの Rainbow Gathering で出会った仲間たちと再会し、馬旅へと出発するのでした。
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