自分をまた見つめ直すのです
中秋の名月とかで、母さんが団子を購入して帰ってくる。時間は記号を与えなければ実に無味乾燥としたものだ。味がなくなって打ち捨てられたガムと、同じ。季節や時間の区切りを楽しめることは、きっといいことだ。17時の太陽の位置が違うのも、深緑が道を鮮やかに染めていくのも、ろうそくの数が一本ずつ増えていくのも、なんだか、あらゆる生き物に必要な気さえしてしまう。
と、私は気づけばいつも「時間」や「季節」、「今の環境」についての言及から文を連ねはじめている気がしている。いきなり本題に入るより、まぁ少し前置きを…の方が心地いいんですよね😙。
4か月ぶりに書いている文章。これといった変化はない。外部環境での変化が無いと、私は自分の内面について考え始めるという癖があるのだろうと、最近思った。まぁ、そういう時期としておこう。
私の考えは分かりにくい。私自身の理解についても、言語化しづらい。就活を一応終えはしたが、その過程を通して行った言語化は、「あくまで働く人としてどのような適性があるか」という前提があるので、それはまた一つの側面に過ぎない、と思う。私は自身のことを、なんだか「引き裂かれている」という形容詞でまとめるとスッキリする。つまり、あんまりまとめられていないという皮肉だ。あらら。
一人でいることは苦手ではない。けど、独りぼっちはむずがゆい。寂しい。かといって、大人数で飲むとか、スキじゃない。嫌いに近い。何を話しても良いか分からない。1vs1の方が得意(になった)。不思議ちゃんとも思っていないが、まわりには触れづらい印象を与えていると、ようやく自覚した。そのうえでどう振る舞えばいいかは、これから頑張ろう。mbti診断をしたことがあるけれど、私はINFJという「なんかよく分からん奴」認定されがちな人なのかもしれない。これは十把一絡げに言い過ぎかな。
私は良い意味でも、悪い意味でも、「常識」が備わっていない気がする。いや、ある程度社会に紛れ込むよう(親や色んな人がきっと教育してくれたと思うので)、備わっていると思うが。一歩足りない。なんだろう、ネジが一本だけ外れているような。自分は人間ではなく、人間の振りをしているスライムに思えてくる。まぁ、スライムでもモンスターでも、なんでもいいけれど。
私は仰々しく、世界に絶望をする。こまごまとしたものを一瞥して、その全てにため息をつく。でも、それが株価にも、地球の自転にも、春夏秋冬にも、なーんの影響をもたらすことは無いことも分かっている。いつだってその「絶望」は、小さな小さな蝶々のはばたきにさえ勝ることは無い。
だからだろうか、私は自分の「世界」に閉じこもっているのが好きなのかもしれない。独りで世界をこねくり回してしまうような、そんな作業が良いのかもしれない。人と喋ったり、一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりが嫌いなわけじゃない。私の「絶望(と或いは希望)」が、ほとんど無意味であるように感じられる分、自分だけの時間という、自身の存在の大きさを体感したいのかもしれない。でも、それは独りぼっちでいることを指すばかりじゃないと、最近は思う。
書くことは、楽しい。書くと同時に、私は考えている。考えられる。文章の連なりと、思案が手をつないで走ってる。ゴールは分からないけど、少なくともこの瞬間、彼らはなんだか笑顔な気がする。
あーーー文章書くのって、いいな。