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車椅子と立ち聞き 

 「えぇっ!?」母が契約している介護サービス施設から電話。「グランマ、また骨折しちゃったみたいで…」わたしががっくりして言うと、「ふーん」息子はスマホ片手に聞き流した。

 関西の実家で独居しているうちの高齢母は、2022年7月9日左大腿骨転子部骨折手術後、おかげさまで快癒していた。その時は小雨の夕方に買い物から戻って、玄関へ続く石の階段で滑り転倒での骨折。約2年経った2024年10月20日、今回は夜に自宅室内でうとうとした状態で敷居につまずき転倒したことによる骨折らしい。家の中で軽くこけただけなのだ。しかし、現在の母は骨粗鬆症が進み骨がもろくなっているため、ちょっとした衝撃で骨が折れてしまう。
 わたしはこの2年、月に1回~2回、数日、滋賀実家に帰省するのをルーティンにしていて、10月22日が帰省予定日だった。帰省日程はそのままで良かったけれど、実家ではなく入院予定の病院へ直行することになった。

 10時半待ち合わせの数分前に病院へ到着。正面玄関に「当院では2023年3月13日以降も引き続きマスク着用をお願いしております」の張り紙がある。病院はまだマスク必須なのか。張り紙横に設置されている自販機で2枚100円の不織紙マスクを購入。マスクを着けて整形外科の受付へ向かうと、既に母がいた。車椅子に乗り、契約している介護サービス施設の看護師さんに付き添われている。
 トレッキングブランドの帽子をかぶり大きなバッグを肩にかけ、病院内で浮くアウトドアな雰囲気の中年の娘に、母が気づく。「ごめんな~」母の第一声。「こっちは全然いいけど、痛ないの? 」「そりゃ痛いわ~。もうわけがわからんのよ」母は骨折の痛み以上に、自分がどうしてこうなっているのかにまだ混乱しているようだった。
 施設の看護師さんと付き添い役を交代し、わたしは色分けされた廊下の矢印を頼りに、慣れない車椅子を押して歩く。レントゲンとCTを撮影し、念のための心電図などの検査も、と骨が折れた老人には酷に思えるほど次々と検査がある。ここの病院の車椅子が旧型というか、くすんだ青い合皮シートと古びた金属のパイプ椅子系の組み合わせな上に動きもいまいちで、付き添い人の気持ちを滅入らせる。検査室から検査室への移動中、10年以上前、自分が押しまくっていたベビーカーを思い出した。

 当時、三輪チューブタイヤが特徴で動かしやすさが売りの、『エアバギー』というメーカーの座席横並びの双子用ベビーカーを選んだ。約10万! うちの家計で考えれば、ベビーカー係数が高すぎるハイクラスな商品。他を削ってでもと、喉から手が出て購入した。横幅が約70cmあり、外見は牛車か戦車のようないかつさ。その大きさにさえ慣れれば、ベビー2人を乗せ、たくさんの荷物をぶら下げ、何時間もぐんぐん移動でき、可動性が最高だった。横並びベビーカーが世の中で珍しい時期で、ルールが整備されていなのをいいことにベビーカーのままバスにも乗っていたっけ…。深刻な事態をよそに追想に耽る親不孝者。

 すぐに検査結果が出て、左鎖骨遠位端骨折&左膝蓋骨骨折と診断される。そのまま入院手続き。今は入院中用のパジャマや下着もレンタルセットがあり、超助かる。レンタル契約にもサイン。
 案内された病室は4人相部屋で、窓際のベッドだ。不幸中のかすかなラッキー。母の左鎖骨周辺は内出血で真っ青になっていたが、ロキソニンの鎮痛剤が効いているのかそんなに痛みはないと言う。それよりお腹が空いたとぼやきだした。時計を見ると13時を過ぎている。わたしは京都駅八条口のスーパーで買っておいた俵型のおにぎりを母に渡した。「美味しそうやん」と、入院患者らしからぬ食欲を見せる母に、わたしも調子付いて、「そやろ? ちりめん山椒混ぜ込みの。京都の駅ビルのスーパーに手作りおにぎりが売ってて、これで100円ちょいなんやで」などと話していたら、看護師さんが「そろそろ面会終わり時間です」と伝えに来た。療養入院高齢者が多いこの病院では現在も感染症(コロナ)対策で面会時間が30分に限られている。

 高齢者が通う〝デイサービス〟と入所宿泊できる〝老人ホーム〟の中間のような『小規模多機能施設』という名称の介護サービス施設がある。完全独居が難しくなったものの、できるなら自宅で過ごしたいと考える、うちの母のような人にぴったりの介護パターン。毎日朝夕にスタッフさんが健康チェックの訪問もしてくれる。小規模多機能施設については、左大腿骨骨折手術後のリハビリ入院中に、院に配置されているソーシャルワーカーさんから教えてもらった。わたしが東京在住で、母の緊急事態の連絡を受けた場合に着のみ着のまま実家へ向かっても5時間はかかり、一報が夜7時過ぎなら新幹線の終電に間に合わず、駆けつけるのが翌日になる。ひとりっ子が当てにならない。けれど、母の死を近いものと意識していなかっただけで、これまでずっとそうだった。母のことは嫌いではない。わたしは情が薄く冷たいのか、急に温かい情って何なのか。
 「介護はお宅のそれぞれの事情がありますし、理想を追いすぎたり他と比べると精神を病みますから」と、わたしの迷いを読み取ったように、ソーシャルワーカーのEさんは赦しの言葉をくれる。Eさんは小学3年生の息子を育てているシングルワーキングマザーだと、何度か会ううちに本人から聞いた。それぞれの事情を想像する能力を、彼女はシングルマザーになる前から持ち合わせていたのだろうか?

 数日過ごす実家では、地元の友達の繋がりもなく、ただ母のおしゃべりに付き合う。そして食材の買い出しにスーパーへ行き、アメスピのオーガニックミントONEを買うためローソンに寄って帰る。住宅街では5軒に1軒の割合は言い過ぎとしても印象としてはそのくらいの頻度で、家の玄関ドア横や庭に信楽焼の狸が置いてある。さすが滋賀。買い物に行く日は道を一本ずつ変えて、狸をスマホに撮りためている。実家滞在中の息抜きといえばこれが息抜き。
 認知症とまで診断がくだらない程度に認知が低下した母は、段取りが必要な料理が作れなくなり、わたしが何かしらを作る。母譲りでもない誰かのレシピで覚えた「ナスとレンコンの甘酢炒め」「しらたき明太子」「里芋の豆乳白味噌」を並べる。「お母さんもな、昔は作ってたはずやけどなぁ」と、台所の食卓テーブルに座った母が、何度もつぶやく。実家に居た18年をゆうに越した30年以上の東京住まいで、母譲りゼロ%レシピでわたしの献立は出来上がる。「うん、色々作ってくれてたで」わたしは相槌を打つ。

 別日に実家へ向かうため、渋谷で山手線に乗ると、車椅子に乗った30歳前後の色白の短髪青年と、40歳前後の背を高くしたサンボマスターボーカルといった感じの介護士さんが車椅子スペースに乗車していた。
 「Hさん、渋谷駅っていつも人がいっぱいだよね」痩せた色白の青年がサンボマスターに話しかけている。彼の車椅子は車輪が円盤のようになった黒と赤のカラーリングの車体で、最新型に見えた。Hさんは車椅子の後ろに、そして色白青年は前を向いたまま話していて、青年の声はHさんに向けてというより、青年の斜め向かいに位置しているわたしへ届いている状況だ。
 「Hさんは、あんまり渋谷には来ないんでしょう?」「若いときは渋谷に好きなお店があって来てたんですけど、なくなってからは来なくなってしまいましたね」「あ、今の電車は泉鉄道だったよ! Hさん知ってる?」「そうなんですね、知らなかったな」無邪気な内容から色白青年の精神年齢は小3くらいで止まっているようだった。青年の声はとても明るく、サンボマスターの声は穏やかだ。まる聞こえのふたりの会話は、青年の思いつくままの変拍子リズムにHさんが合わせる形で、かわいく成立している。清らかな小川の辺りにいるような心地で、わたしは立ち聞きを続ける。 
 「Hさん、Hさんが僕を迎えにくると、お母さんニコニコになるんだよ。Hさん、お仕事大変? お仕事やめないでね」青年の言葉からHさんの素敵なお仕事ぶりが伺える。「頑張ります」Hさんが少し笑って答える。
「僕はお迎えがずっとHさんだったらいいな」色白青年のあまりにもストレートな言葉に、無関係なわたしの胸が詰まる。品川駅で駅員さんがスロープを準備していて、わたしも彼らも下車した。
 青年のお母さんはHさんの手を借りることで優しくいられる部分もあるだろう。Hさん、ぜひお仕事やめないで!とわたしからもお願いします。 
 
 今回は毎度の夜行バスでなく品川から東海道新幹線で帰省する。足ダルにならない分、実家の片付けをがんばろう。

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