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出雲旅行記⑥


一畑薬師のようかさん

出雲旅行三日目の日付は1月8日。
昨夜、「縁」というお食事処でご一緒させていただいた出雲人のHさんに出雲のおすすめの場所を聞いた時、明日は8日とのことでちょうど一畑薬師で「ようかさん」という縁日があるから行ってみるといいよと教えてくださった。うどんも振舞ってくれるらしい。

それでこの旅の1月8日というタイミングで、毎月8日にだけ行われるという「ようかさん」、しかも新年で特別開運星まつり。
これは行くしかないと参加したわけだが、この一畑薬師、水木しげる先生ののんのんばあと深い関係があるお寺である。

私のこの旅行のことのはじまりは「水木しげる」。
ここでつながるかという感動。

ポスターにものんのんばあ

レンタカー危機からのドンピシャギリギリで辿り着いた一畑薬師。
本堂に入ってお経やご真言の書かれた紙をいただき、空いている席に座った。

はじまりの太鼓が鳴り出す。
和太鼓の音を聴くと何故か高揚する気持ち。
舞踊がはじまると、「女」性の持つ柔らかさや美しさを感じ、生物としての女と男の違いを改めてまざまざと感じた。

その後の和尚様方による大般若祈祷会は無礼な表現とはわかっているけど、圧巻のパフォーマンスショーといった感じ。
経典転読と呼ばれる、経題などを唱えながら経典を上から下へバラバラさせる様子は、たくさんの和尚様が一斉に行うことでものすごい迫力だった。

日本は宗教離れしていると言われるけど私は20代の頃、伊勢神宮の写真集をどこかで何気なくパラパラと見たときに、大木の前で神主たちが低頭して祈りを捧げる様子の一枚を見たときに「これだ」という感覚に襲われ、それから神道を自分の一番の宗教だと思って生きてきた。
しかしながら、この「ようかさん」のおつとめに参加してみて仏教についても改めて興味が強くなった。
やはり先祖代々からつながるこの身体が、伝統ある空間やお経に対して細胞レベルで何らかの反応をしている気がする。


一畑薬師本堂


大提灯

この大般若祈祷会を含むおつとめの後には官長様による法話。
このお話の内容が、今朝バス停に向かう間に我々が歩きながら話していた「お金とはなんぞや」という話題から広がった深めの話に対する答えのような感じで、そのピッタリ感にまた感動した。

「己事究明」という禅語も教えていただき、いつも私が頭を使っている「自分とはなにか」というテーマそのものであったということにも感激。


ちなみになぜ生まれたか、何のために生まれたのかに対しては今の私が思うところは「ただ生まれたから生きてる」それだけである。

どんな環境でどんな親の元に生まれたのか。それに加えてその時その時の自分の選択の結果が現在。それだけ。

だから「死ぬときがくるまで生きる」それだけ。
その生きてる間にどう生きるかを自分と向き合って考える。
私はとにかく楽しいのが好きなので生きるからにはできるだけ楽しく過ごしたい。
シンプルにそれだけを信念にいきたい。

しかしこれがなかなか難しい。…といって悶々と悩んでいることがある意味もう存分に楽しんでいるんだなぁとも思う。


さらに法話で判明した、官長様が決めた今年の干支の色紙に選ばれた文字はなんと「縁」。
気になって調べたところ昨年は「平安」その前は「真心」。
毎年「縁」ではない。

今年の文字
昨夜決めた店

「縁」という名前のお店で出会った方からのご縁で訪れたお寺の今年の一文字が「縁」。
さらに翌日にもこの「縁」シンクロニシティが起きるのである。
出雲市は「ご縁のまち」「縁結びのまち」などとも言われているので比較的「縁」というワードは多用されているとは思うが、それでも今回なかなかに偶然が重なったのではないかと思う。おもしろい。

素晴らしい法話を聞かせていただいた後は、なんとうどんを食べさせてくれるという。

といってもお接待とよばれる無料のうどん。
わんこそば的なとりあえずの一杯であろうと予想していたがこれが違った。

しっかり一人前ある。そしてシンプルながら美味しすぎる。刻みたてのネギにカリカリの油揚げがいい。ご馳走様でした。

お腹を満たしていただき、最後は一畑薬師のお茶湯をいただいて退散。

徳利にも入れてお持ち帰り


つづく

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久美子/タビ
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