【再掲】青い毛布(1/12)
印象的なエピソードが一つある。
1996年。この年の夏に開催された、アトランタオリンピックに関する話しだ。
その時、ある一人の黒人選手が、ハードル走の最終レースのスタートラインに立ち、メダルの采配を決めるべく、各国の選手達と共に並んで勝負の瞬間を待っていた。
「On your mark … Get set(※位置について、用意…)」
合図とともに彼が駆け出した十数秒後に、観衆はその不可解な光景にしばらく目を見張り、次第に動揺の渦に巻き込まれることになる。
なんとこの選手は、障害物であるハードルのほぼ全てを、足を引っ掛けてことごとくなぎ倒してしまったのだ。
しかし、この時観衆が動揺したのはその事に対してではなく、彼がそれにも関わらず、このレースで金メダリストになってしまったという事実だった。
さらに彼は当時の世界新記録を、多くの人が跳び越えるためにあるとばかり思っていたハードルを、まともに跳び越えもせずに見事に塗り替えてしまったのだ。
実は彼はこの日に至るまでに、走行スピードの落ちないハードルの最良の倒し方を日夜研究し、跳躍直前に、振り上げた片足のかかとを当てて倒す方法と、それより前に歩幅が微妙に合わないと判断した時には、太ももの裏側、つまりはハムストリングスと言われる部位にハードルを当てて倒す方法を編み出していた。
レースが始まると、高速で旋回するこの選手の足の動きに巻き込まれるようにハードルは次々となぎ倒されていき、それにともなって、漆黒に輝くその肉体は加速を増して、他の選手達をどんどん引き離していった。
その年。人々は世界最速となったこの男の、その常識にとらわれない走り方と、研鑽の日々に賞賛の嵐を送った。
名前はアレン・ジョンソン。アメリカ合衆国の代表選手である。
そしてそのアトランタオリンピックからちょうど十年後の春。
東京の、とある高校のグラウンドでも、陸上部員達が放課後にハードル走の練習をしていた。
「位置について、用意」
コーチの合図とともに部員達が一斉に駆け出した数秒後、その中の一人の少年が他の少年達から取り残されるように出遅れて、一台目のハードルでいきなり躓いて転びそうになった。
この少年はその後も加速することなく何度もハードルに躓き続け、他の部員達の失笑を買いながらも、結局この日の新入部員中最低のタイムでふらふらとグラウンドを走り抜けた。
……アレン・ジョンソンの真似でもしたかったんだろうか?
コーチをしていた教師は、勝負の采配などそっちのけでどこか一点をぼんやり見ているその少年を見てそう思っていたが、しかし、事実はそれとはかけ離れていた。
実はスタートの合図が鳴る直前に、陸上部のマネージャー志望としてグラウンドに入ってきたとある女子生徒の姿を捉えたこの少年の視線は、スタートの合図が出てからも、彼女からひと時も離せなくなってしまっていたのだった。
その瞬間の彼の衝撃を何かに例えるなら、それは春の稲妻に貫かれたような……、いや、雲の中の伝説の城が音を立てて崩壊していくような……、いや、それはまるで、宇宙にある全ての天体の運行が突然停止してしまうほどの……。
「……っていうか超かわいい」
心の中でそう呟く少年。
つまり彼はその瞬間に、恋に落ちてしまったのだ。
ちなみに、ハードルを倒してアレン・ジョンソンは世界から賞賛を浴びたが、少年がこの後に浴びたのは、「お前やる気あんのか!」、というコーチからの叱責だった。