無限に広がる物語、その余韻―亀野あゆみさん著『宝生世津奈の事件簿/深海の使徒』第X章 アバター、そして、コータローの涙」 評
年の瀬が迫ってまいりました。今回は透明批評会の最後の作品、亀野あゆみさんの「宝生世津奈の事件簿/深海の使徒』第X章 アバター、そして、コータローの涙」です。
本作は連載中の長編からのスピンオフ、もしくは予告編という事でしたが、きちんと独自のテーマがあり、短編としても十分読み応えがあります。キャラクター表現に曖昧さや矛盾がなく、人物の輪郭も非常にシャープです。人物造形の巧みさではやはり随一だと思いました。
また、テーマの深さに反比例してリーダビリティが高いです。繰り返しになりますが未読の方はぜひ読んでください。
まず、一連の長編について触れるのは最後にして、ここからはあくまで独立した短編として読み解いていきます。
この1時間ほど、もっぱらコータローと怜子が話していて、世津奈は聞き役に回っていた。
まずは人物の動かし方の巧みさ。
三人同時の会話表現はプロでも難しく、混乱させないためにも避けた方がいいです。ここで上手く役割分担する事で回避できています。
「つまり、あれすか?永田町は肥溜めってことすか?」コータローは舌をもつれさせながらも、怜子の話についていっている。
「肥溜めの方が、全然マシ!」
「えっ?」
「肥溜めのクソは肥料になって、お百姓さんの役に立つ。永田町のクソは、なーんの役にも立たない。世の中を汚すだけ」
「あゝ、そうっすね。ほんと、その通りだ」コータローがグラスの酒をあおる。
この会話を見ただけでも、二人の性別や年齢、性格や関係性が瞬時に見えてきます。類型的になりそうな所ですが、不思議とリアリティーがあってそうは感じさせません。怜子やコータローみたいな人、身近にいますよね。
初めて読む人にイメージしやすいですし、続けて読んでいるひとはさらにそのイメージが含みを持って迫ってきます。
自分のスツールに戻ろうとしたところを、突然、コータローに呼び止められた。
「今、怜子さんと話してて気づいたんすけど、宝生さんって、自分のことを、話さないっすよね?触れたくないこととか、後ろ暗いこととかが、一杯あるんすか?」
振り返ると、コータローがスツールの上で態勢を立て直し、ミネラル・ウォーターのボトルも自分の手に握って、赤い目でこちらを見ている。
酔ったコータローを上手く使う事で、プレーヤーがスムーズに切り替えられます。
世界の成り立ち、アバターについて
「どうして、私が、自分のことを話さないかって?それは、私がコトバで説明できる私は、ぜーんぶ、『私という命』の『アバター』に過ぎないからよ」
そして今回の本題、アバターの話が出てきました。この辺りではまだ心理学でいう所のペルソナ的な概念かなと推測していました。
そして、そう考えている時点で私は本作の議論にいつの間にか参加させられているのです。
いかにもコータローらしい非・本質的なディテールへの突っ込みなので、無視する
ちょっと関係ないかもですが、この言い回しで個人的に好きでした。おもしろかったです。
そして一連の議論を呼んで、「アバター」というものに一番近いのは平野啓一郎の「分人主義」かなと思いました。分人論では自己とは他人との関係性の複合体であって、本当の自分はどこにもいないという、見方によっては少しドライな結論だったと思いますが、どこかにオリジナルの自分がいる、そう考える世津奈にはまだ純粋さが見えます。
加えて「私」というのものは他人との「縁」によって増えていきます。その個々の分人について、「アバター」と表現するのはなるほどです。この方がイメージしやすく、より頭に浸透しやすいと思いました。
「両親はね、私をいわゆる『良妻賢母』ってやつにしたかったのよ。この私が、『良妻賢母』よ。あり得ないでしょ。無茶苦茶だわ。それでも、小学校までは、家では、求められる『イイ子』を演じてた。学校では、男子とケンカばかりしてたけどね。親に言われるまま中学受験をして、かなりの進学校に入った。でも、そこまでで、限界だった」
そして怜子の特定のアバターについて話が及びます。
私はここがこの作品の肝であり、また凄い所だと感じました。
怜子の話しを読んでいて、誰しもが自分自身の特定のアバターを想起させられるのではないでしょうか。
保坂和志の「小説」は読んでいる間にしか存在しない。という言葉があります。つまり、読んでいる最中で発生する読者自身の心の動きを含めて一つの作品となりうるのです。本作は短編でありながら、読者がキャラクター達の会話に無意識に参加し、そして特定のアバターを読者自身が思い返し始める仕掛けがあると感じました。そしてその仕掛けが上手く機能した瞬間、「物語」が読んだ人の数だけ、爆発的に増殖していきます。
今回の批評会の他の参加者が独自の短編を投稿するなか、長編からのスピンオフだと一連の作品を読んでこなかった人からすれば色々イメージが湧きづらく、少しハンデになるのではないかと思いがちですが、ここではっきり亀野さんの力量を垣間見せられました。
物語は終わらない
「そぉ、ツイてた。ツキは、コー君にも回ってくるに違いないわ」怜子が、まだコータローに手を添えているのを見て、「ほら、現に、ツキが回ってきてるじゃない」と言ってやりたかったが、黙っていることにした。ツキに気づいてモノにするのは、本人の力だから。
あれあれ?この二人そういう感じなの?とばっちり関心を持たせられた所で本作は終了です。
コータローや、怜子、世津奈などのキャラクターがだんだん好きになるとともに、本編の長編に対する興味も沸いてきます。そこから亀野さんワールドに誘われる仕掛けになっています。お見事。
「リトルピープルの時代」などを書いた批評家の宇野常寛によれば、今のマーケットの中で需要のある要素は、最上位にストーリー。その次にキャラクター。最下位は文体、となっているそうです。どんどん衰退していく純分学などに比してライトノベルなどが一大市場を築き上げている点を見てもそれは頷けると思います。
緻密に練られたストーリー、魅力的なキャラクター、そしてシンプルでありながらも的確な文体、つまり、世の中で求められる要素全てを持った亀野さんの作品が日の目を浴びる時は近いと成田は確信しています。
日々深まっていく亀野さんの作品、そしてそれを築き上げていく才能と努力に敬意を表して筆を置きます。
成田 拝