【再掲】青い毛布(7/12)
お好み焼き屋の前に自転車を停めたまま、店を出たその足で、暑かったという事もあり、サーティーワンでアイスクリームを買った。
その後、すっかり暗くなった夜道を二人で当てもなくぶらぶらと歩く。
結衣子は信吾にしきりに、ねぇ、私の顔、赤くない?と聞いている。結衣子の頬はお酒が回って確かに少し赤かったけど、大丈夫、あんまり気にならないよ、と信吾は答えた。
一緒に歩いているうちに、結衣子との距離がまた急に近くなって、信吾は自分の手に軽く触れている結衣子の手を、握ろうかどうか迷っている。
それから携帯電話をいじっている彼女の白い首筋を見つめながら、一目ぼれをしてしまった頃の自分が今の状況を見たら、きっと夢でも見ているんだと訝るに違いないと考えていた。
そして途中で溶けてぽたぽたと地面にこぼれ始めるアイスを二人で食べながら、結衣子もこれからどうしようかと考えていた。
だんだん帰りたくなくなってきた。信吾はアパートに泊めてくれと頼んだら、泊めてくれるだろうか?
寄り添うように歩く、背の高い信吾の横顔を見上げてみる。
結衣子は思う。本人がなぜか気づいていないだけで、信吾は女子から結構人気があったのだという事を……。
「…聞きたいことがあるんだけど、時間ある?」
ある時、普段は結衣子の事を毛嫌いしている派手なグループの女の子が、急に話しかけてきた事があった。
放課後に人気の少ない図書室にまで連れてかれて、一体何をされるのかと戦々恐々としていると、その子は近くに人がいない事をもう一度確認してから、結衣子にこう切り出したのだった。
「…宮島君ってさ、彼女とかいるの?」
「…え?」
派手な身なりの女の子は、派手な身なりの男の子が好みなのだとばかり思っていた結衣子は、一瞬自分の耳を疑った。
「…ほら、遠藤は部活も同じだから、何か知ってるかなと思ってさ」
うつむいて恥ずかしそうにしているその姿は、どこか微笑ましくもあった。
本当は化粧をしなくても、この子は結構可愛いんだろうなと思いながら、結衣子は残念そうな表情を作り、それから何故かその相手に嘘をついたのだった。
「…私はよく知らないんだけどね、でも他校の女の子とデートしている所を見たって、他の人から聞いたよ」
少し間があった後に、次第に相手の表情が沈んでいくのを、その時結衣子は罪悪感を感じながら見つめていた。
……あの時、どうして私はあんな嘘をついたんだろう?
結衣子は信吾の隣を歩きながら、その事について考える。
普段陰口を言われていた腹いせ?…いや違う、私は確かにあの時、信吾を他の女の子に取られたくないと、はっきりそう感じていた。
そうだとすると、恋人でもない信吾に対して自分が抱いていた感情こそ、所有意識というものなんじゃないのか…。
――ねぇ信吾、好きな動物は何?
「クジラ。遠く離れていても、歌うように何かを伝え合うから」
――好きな季節は?
「秋。秋の雨が降ってる時が、一年の中で一番気持ちが落ち着く」
――じゃあ、趣味は?
「走る事と、小さな映画館に一人で行く事」
――どんな映画が一番好き?
「ドイツ映画。ヴィム・ヴェンダースの映画が特に好き」
――将来の夢は?
「海辺の家に住んで、チョコレート色のラブラドールを飼う事」
――それで、好きな女の子とかはいるの?
「…(黙秘)」
高校生の頃から、信吾は他の男子達とはどこか違う、少し不思議な雰囲気を持つ男の子だった。
普段は口数が少なくて、結衣子から話しかけるか、他のクラスから陸上部の仲間が顔を出す時以外は滅多に喋らなくて、いつも一人で音楽を聴いてるか、静かに本を読んで過ごしていた。
そして本人はそこに何の不自然さも感じていなさそうで、むしろそんな時間を楽しんでいるような所さえあった。
自分にとって何が必要で、何が必要ないのか。
まるで、それを生まれた時からずっと知っているみたいで、それは誰かと一緒じゃなきゃトイレにも行かないような、今日そこにあった人間関係が、明日になると簡単に揺らいでしまうような、それが普通だと思っている周りの子達には到底理解できない事ばかりだったし、魅力を感じたとしても、どことなく接点が見出しづらくて、話しかけづらい雰囲気もあったから少しクラスでは浮いていて、物静かなのに、どういうわけか妙に目立つ存在だった。
今思うと、どうしてあの信吾とここまで仲良くなれたのか、結衣子は不思議に思う。
……宮島君って、ちょっと変わってるよね。掴み所がないよね。なんだか取っ付きづらいよね…。
信吾という人を捉え損ねた人間は、彼に対して決まってそういう表現をしていた。
まるで白いカンガルーみたいだ、と結衣子は思う。
信吾を見ていると、結衣子は小さい頃に父親に連れられて行った動物園で見た、白いカンガルーをいつも思い出すのだ。
それは積もりたての初雪みたいに、真っ白でふわふわとした毛並みをしていて、でも耳の中はピンクで、まだ子どものカンガルーなのに、他の茶色のカンガルーの群れから離れて一頭だけで孤立していた。
そして、所在なさそうに二本足で立ったまま、優しそうな一対の瞳を潤ませて、どこか遠くの一点をずっと見つめていた。
その姿を見ているうちに、結衣子はなぜか吸い込まれるような寂しい気持ちで胸が一杯になった。
そしてそのカンガルーに目を奪われた結衣子に、一緒にいた父親がそっと教えてくれた。
「…あの子どものカンガルーはね、突然変異でああいう色になったんだ。ああいう動物は、生まれつき遺伝子に欠陥があるんだ。だから体力がなかったり、病気になりやすかったりするんだよ。あの白いカンガルーもきっと、長くは生きられないだろうね」
それを聞いてから、結衣子はもう一度白いカンガルーに目を戻した。それから「お父さんの言っていることは、何か違う」と思った。
父親が言う、ケッカン、というものがあるはずの白いカンガルーが持つ独特の雰囲気は、周囲の空気には決して溶け込まず、むしろ徐々に周りを侵食していくような、不思議な力と存在感があるように結衣子には思えたのだ。
結衣子にとって、信吾という人間は、あの時の白いカンガルーのイメージがなぜかいつもピタリと重ね合わさるのだった。
「ねぇ信吾、高校に入ってから、最初に話しかけたのはさ、どっちだったか覚えてる?」
「うーん…覚えてないな」
「私の方だったよ?私もね、前にも言ったと思うんだけど、中学の頃までは陸上やってて、走るのは好きだったんだけどね、他の子と比べるとあんまし速く走れなくて、元々体も弱いし、自分には向いてないのかなって思って、途中で諦めちゃったの。
まぁ、未練はあったから高校入ってマネージャーにはなったんだけど…」
人差し指に垂れた、溶けたアイスを一口舐めた後に、結衣子は話を続ける。
「信吾って最初、新入部員の中では全然目立たない選手だったでしょう?」
「うん、そうだったね」
「でも、それから毎日毎日、誰よりもトレーニングして、努力して努力して、最後は二十人くらいいた同じ学年の陸上部のメンバーの、三番目くらいまでには足が速くなってた。
一年生の最初の頃にね、部活の休みの日でも、校庭で一人で練習している信吾をある日見かけたときにね、あぁ、あの子は何も諦めずに、まだ色んな事と闘ってるんだなぁって思ったの。
そしたらね、なんだか信吾と、もっと友達になりたくて、色んなことを話してみたくてしょうがなくなったの。
でもコーチが厳しいからさ、あんまし部活の最中って話せるタイミングってなかったでしょ?だからクラス替えで、二、三年のクラスが連続で一緒になったの、実はすっごく嬉しかったんだ」
結衣子は信吾の事を、最初は親友だと思っていた。心から話したいと思う事をなんでも話せる、自分だけの特別な親友。しかし、時間を重ねていくうちに、だんだんそれとは違う気持ちがいつしか芽生えていた。だけど…
結衣子は話の途中で急にうつむいて、胃を締め付けるような感覚を抑えながら、下唇を噛み締める。
やっぱりもうこれ以上、信吾に迷惑は掛けられない…。
結衣子はそう思って、終電の時間を携帯で調べ始める。
「ねぇ、ここからの最終電車の時間ってこれで合ってる?」
「…うん、これでいいんだよ」
「終電終わるのすごい早いね…。このままだとあと少ししか時間がないよ。違う路線とかもないのかな?」
再び携帯で調べたが、それより後の交通手段はなかった。二人ともアイスのコーンまで平らげてしまうと、もうすぐ夏だし、残りの時間で最後に花火をしようということになった。