Fish in the tank(6)
結局の所、その後も教授が現れる事はなく、四人はとりとめのないお喋りを続けたり、またそれぞれの作業に戻ったりしては長い時間を過ごした。研究室の窓から見える景色は、その間に徐々に日の光を失って、夕時が近づく頃にはすっかり蒼ざめて暗くなっていた。
一向に現れない教授を待ち疲れて、最後は日を改めてまた来ようという事になり、研究室を全員で後にして外に出ると、四人は構内の外れにあるバス停までの道を、寒さに身をすくめながら少し足早に進み始めた。
昼間は人影が見当たらないように思えた構内も、夕方になると練習終わりの運動部やリクルートスーツを着た学生がちらほらと行き来していて、美雪が何気なく校舎を見上げると、休みのわりには明りのついている教室もたくさんあるのがわかった。
その隣で飛鳥はクリスマス用の電球が巻き付けられて煌々としている並木を見上げていて、次第に昨日の事を思い出しそうになっている自分に気づくと、すぐに目を伏せて違うことを考えようとし始めた。
「…あのさ、別れて欲しいんだ」
あの時、急に呼び出された喫茶店でとうとうカナイ君がそう切り出し始めた瞬間、飛鳥は頭の中が次第に真っ白になっていくような感覚に襲われて、何も言えないまま相手の顔を黙視し続けていた。
その間にカナイ君は口元をパクパクと動かして何かを必死に言い続けていたが、飛鳥には何一つ聞き取れなかった。
そして見る見るうちに表情を輝かせ始めたその隣の女も、次第に何かを哀れむようなそぶりを見せながら飛鳥に話しかけてきたが、やはりそちらも何を言っているのかはさっぱり理解できなかった。
...やっぱり、あんな人好きにならなきゃ良かったんだ。
飛鳥はそう考えた後に、渦巻いてくる嫌な感情を沈めようと、ぎゅっと目を瞑った。
その少し後ろで雄二は帰ってからしなければいけない事を思い浮かべては整理していて、青柳は一番後ろで音程の外れた謎の鼻歌を歌っている。
しばらくすると、遠くにバス停とバスを待つほかの学生の長い行列が見えてきて、四人はその最後尾に並ぶと、手を擦り合わせたり、マフラーに顔を埋めたりして他の学生と同じようにバスを待ち始めた。
「…っていうか、なんでこんなに並んでんの?いつもは行列なんてできないのに」
飛鳥が雄二にそう聞くと「…俺に聞かれても分からない」と雄二が短く答えて、その後に並んでいる他の学生の会話などを聞きながら状況を窺っていた美雪が、どうやらバスが予定から大幅に遅れて、かれこれ一時間以上も姿を現していないらしいという事を突き止めた。
次第に寒さの中で待ち続ける事に痺れを切らした他の学生が列から抜け始めると、「あたし達も歩いて駅まで行こうよ」と飛鳥が言い出して、雄二も美雪も青柳も、徒歩でもバスでもどちらでも良かったので、結局飛鳥に続いて列から離れると、構内をまたしばらく歩いて正門から大学の外に出た。時刻は夕方から夜に移り変わる境目で、飛鳥が何気なく空を見上げると、夕日が沈んだ後の空が透き通るような紫色に染まっていた。
「この時間帯ってさ、何か景色が綺麗に見えるよね?」
飛鳥が隣にいる美雪にそう話しかけると、美雪も一度空を見上げて、それから目の前の道路を流れていく車の光を眺めた。
「空気が澄んでいるからかな?」
歩きながら美雪がそう答えると、青信号の横断歩道を半分ほど渡った所で「…マジックアワー」と雄二がぼそりと呟いて、「何て言ったの?」と聞き返す飛鳥に、その説明をし始めた。
「マジックアワー。日没後の数十分間は、光が柔らかく見えて景色がすごく綺麗になるんだ。…この時間帯を狙って写真を撮ると、誰でも、魔法みたいに良い写真が撮れるって言われてる」
「何でそんな事に詳しいの?」
飛鳥がまた聞くと、雄二は前を見つめたまま、「写真を撮るのが趣味だから」、とだけ答えた。
……そんな趣味があるなんて初めて知ったな、と思いながら、美雪も周りの風景を眺めてみると、確かに、雲の少なくなってきた空に映える三日月も、路上を照らす自販機の光も、ありふれているはずなのに、少しだけ特別に見える気がした。
四人は、しばらく道なりに真っ直ぐ歩くと、駅までの近道をするためにコンビニの手前の道を左に曲がって、真新しい家の並ぶ新興住宅地に入っていった。
整然と並ぶ家々は建てられてほとんど時間が経っていないのか、どれも綺麗で統一された造りになっていて、まだ人が住んでいない家も多いのか、明かりがついている窓も少なかった。
「私、いつもバス使ってたから、この辺り歩くの初めて…」
まだ骨組みの状態の家の前を通る時に美雪が言うと「あたしも大体バスだけど、考え事とかしたい時はよく歩くよ」と飛鳥が答えて、「じゃあ、今日は何か考えたい事でもあったわけ?」と青柳が少し後ろから聞くと、飛鳥は足元を見つめながら少し考え込んだ。
「うんまぁ、別に大したことじゃないけど…」
すると、話の途中で後ろから車が何台か連続的に来て、全員でガードレールの内側の狭い道に退避すると、しばらく一列に並んでその道を歩いて、車が来なくなったのを確認してから、また車道の方に広がって歩いた。
「あのさ、みんなはさ、運命を変える出会いって経験したことある?」
唐突な飛鳥の質問に、「それって恋愛の話し?」と美雪が聞き返すと、まぁそれだけじゃなくてもいいんだけど、と言いながら飛鳥が説明を付け加えた。
「人は生きているうちにそれが本当は何度もあって。みんな気づかないうちにそれを見逃すから幸せになれないんだって」
「それは誰が言ってたの?」
「…カナイ君」
「カナイ君って?」
「…まぁ、とにかくさ、それってあと何回あるんだろうって思って」
「大丈夫だよ。飛鳥ちゃんならいい人にたくさん出会えるよ」
美雪にそう言われて、そうなのかなぁ、と言いながら、飛鳥は民家の敷地内に作られた家庭菜園を眺める。その横顔をちらちらと窺いながら、こんな可愛い子でも、そういう事で悩むんだ、美雪は内心で思っていた。
二人の会話に加わらずに、少し離れた場所からその様子を眺めていた雄二は、美雪の痩せた背中を見つめながら、この子はどうして他人にそこまで寛容でいられるんだろうと考えていた。
飛鳥はそれなりに見た目が良いせいか、あまり周囲の動きに関心を持とうとしない雄二でもはっきりと分かるくらいに男子からは人気があって、そんな人間が、真逆のタイプと言ってもいい美雪に対して出会いの話をするなんて、少し無神経な事のように雄二には思えた。
思い返してみれば美雪は今日だけでも、学生との約束を平気で忘れる教授にも、子供みたいに暇つぶしの相手をさせてくる青柳にも、無愛想な態度ばかりを取る雄二自身にも、一度も怒ったり、不満を見せることなくその振る舞いを受け入れている。
そんな風に雄二が考えていると、飛鳥が歩く速度を急に落として、他の三人から大きく離れ始めた。
黙り込んだままずっと下を向いて歩いているので、不思議に思った美雪が近寄っていって様子を見ると、飛鳥が声を出さずに泣き始めているのでびっくりした。
「…どうしたの?」
「…なんか話してたら、急に悔しくなってきた…」
とうとう道の隅に立ち止まって、地面に涙を零し始める飛鳥を見て、美雪は、さっきの運命とか出会いなどの話の流れから、何となく原因は恋愛関係だろうと事態をすぐに察した。
「彼氏とかと何かあったの?」
「…浮気されて捨てられた」
「え?いつ?」
「…昨日」
声を震わせる飛鳥の頭を撫でながら、こういうときに何と言って慰めたらいいのか分からず、美雪は助けを求めるように雄二を見た。
しかし、見られた所で雄二もどうしたらいいのか分からず、こんな事になるなら、やっぱり一人でバス停に残れば良かったと、この場に居合わせた事を内心で後悔し、そしてそう考えてしまう自分を、どこか狭量にも感じていた。
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