【掌編】翡翠草原

それからふと目を覚ますと、少女は見果てもない草原の真ん中に裸で立っていました。

深呼吸をすると、草原のざわめきが光の粒子と共に肺の中を一杯に満たして、うねる緑の海からは、鋭い残像がきしきしきしきしと音を鳴らして飛び退っていくのが見えました。

少女の体は何故か全身びっしょり濡れて、髪や指の先から滴がぽたぽたと滴り落ちています。

耳の奥からは人の声ともつかないような囁き声がふつふつふつふつと溢れる様に聞こえ続けていて、それは耳をふさぐと余計に大きな音の渦になって頭の中を満たしてゆくのでした。

分けも分からないままゆっくりあるき始めると、硬く尖った辺りの葉先が露出した肌をじゃれつくように傷つけはじめて、腰や太腿に刻まれた切り傷からは血がしくしく、しくしくと痛みで疼きながら滲んでいきます。

生温かい血は滴りながら少女の足元までを素早く伝って、その赤は目を閉じると瞼の裏で緑色の残像となって、また開くともう跡形もなく草原の中に溶けて消えてしまいました。

空を見上げると、黄色い、大きな満月が圧し掛かるように迫っていました。不思議なくらいに現実感がなく、これから日が暮れるのか、夜が明けるのかわからない。月の表面を一瞬何かが横切った気がしましたが、黒い影が月の面から消えたら、それはどこへいったのかみえなくなってしまいました。

そこいらを見回すと、草原は見渡す限りどこまでも広がっていって、一陣の風が吹くと、波が立つようにその通り道にある草がざわざわなびいていきました。

少女が目を瞑ると、体の中で無数の草の種子が熱を帯びながら発芽し、そこから光を求めて体内を繁茂し始める様子が頭の中で浮かんでは消えて、そのままじっとしていると、草原がしゃわしゃわ、またしゃわしゃわと葉の先を揺らしてざわめきだして、そこかしこに潜んでいる虫達の羽を擦り合わせながらお互いを呼び合う共鳴が一斉に辺りを満たしていきました

ふぃりり
ろろろ
きゅるるる
ふぃりり
ろろろ
きゅるるる

周囲にある全ての気配にそのまま意識の回路を開いていると、次第にその気配の中に自分も溶け込んでいくような、何か大きな流れの一部になるような、そんな静かで満たされた感覚を少女は覚えました。

気づくと辺りにまた風が吹いて、草の波紋がどこまでも広がっていったかと思うと、草原が互いに意思を交わし合うための匂いの粒子が、波打つ葉先から別の葉先へと目に見えない信号となって空気の中を飛び交っているのでした。

……あとふたばん……けさはもう……ほんにおそくなり

誰かの囁きは頭の中で急に大きくなって、それは何の意味もなさないまま、波が引くように小さくなっていきます。

することもなく立ち尽くしていると、そのうちに月が青くなってきました。明るさは空の端へとだんだん吸い込まれていき、地平線にただ一筋の、帯び程の光が残りました。

その地平線の細い帯も、次第次第に存在が薄くなって、すっかり消えてなくなろうとするとき、闇の粒子のような小さな点が、いくつもいくつも遠い空の中に現れました。みるみるうちに、その点は数を増やして、明かりの流れた地平線一体にその点が並んだ時、いよいよ光の帯が無くなって、空が黒くなりました。そうして月が輝き出して、その時初めて、少女はこれから夜になるのだなと思いました。今光の消えた空が西だという事もわかりました。

体が次第に乾いてきて、背中を風が渡る度に、うぶ毛がそれに反応して皮膚が粟立つのを感じました。月が小さくなるにつれて、青い光は遠くまで流れ、水底のような草原の真ん中で、少女はふいに昔の事を色々思い出せそうな気がして、それから何故か悲しくなりました。けれど、次第にその気持ちもぼんやりとしてきて、どこで自分の記憶が切れたのか分からない、どれだけ考えてみても風を掴むようにはっきりしなくなってしまうのでした。

少女は口を開きかけたまま、すっかり冷えた眼差しで瞬く星々をじっと見つめ、何かが濁った気泡のように蒸発していくのを密かに感じ取っていました。夜空は底の見えない深い湖のように静かで優しい気配をたたえていて、空のずっと奥では、硬く透き通った音の輪が何かを祝福するように広がると、やがては宇宙に溶けるように聞こえなくなりました。

草原の中から緑に光る小さな泡が次々に浮かび上がり、それらは群れを成すように一つになって空へ上ると、やがて空気に溶けるように見えなくなりました。

遠くでは白い一角獣がいななき、蒼白いたてがみをふわふわと揺らしながら、波立つ緑の大地を颯爽と駆け抜けていきました。

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