【再掲】青い毛布(3/12)
「信吾のアパートに遊びに行ってもいい?」
大学一年の六月。
初めての一人暮らしが少しずつ落ち着いてきた頃に、唐突に結衣子からそんなメールが届いた。
もちろんそれは高校の陸上部のみんなと一緒に、という意味なのだろうと信吾は最初は思っていたが、日を置いて何度か連絡をやり取りしているうちに、どうやら結衣子は一人で信吾の家に遊びに来るつもりなのだという事がだんだん分かってきた。
あまりにも唐突な連絡だったせいもあってか、色々な事が腑に落ちないままにあっという間に当日が来てしまい、信吾はその日の朝に、思い出したようにいそいそと自分の部屋の掃除を始める。
読みかけの雑誌や、散らかした大学の講義のプリントを掻き集めてから一箇所にまとめて、脱ぎ捨てたままのパーカーやTシャツを順番にたたんでタンスに入れた。ある程度片付けた後で、電子レンジで昨日作った夕飯の残りを温めてから黙々と食べていると、テーブルの上で、携帯電話が鳴り響いた。
短い着信音は、三回テーブルの上で鳴ってから、ピタリと止まった。メールだ。
結衣子からだと思って信吾は携帯電話の画面を開いたが、内容を見てみると大学の友人からの合コンの誘いだった。返信を返さずに、そのまま電話をテーブルに置く。
それから洗濯籠に溜まった洗濯物を、今度はベランダに出て洗濯機の中に全て突っ込んだ。スイッチを入れた後に空を見上げると、梅雨の季節にもかかわらず深い色の青空が広がっていて、陰影を増した街の色合いと、体積を増してきた立体的な雲とが、そう遠くはない夏の予感をさせた。車がほとんど入る事のない向かいの駐車場に目をやると、野良猫が二匹、気持ちよさそうにアスファルトの上で体を伸ばしきって日向ぼっこをしている。
中古の洗濯機がカタカタと小気味良い音を立てて動き始めたのを確認している時に、また携帯電話の着信音が三回、テーブルの上で鳴り響くのが聞こえて、素早く部屋の中に入って画面を開いた。
「無題:そろそろこっちを出発するよ」
実はこの前のメールは何かの間違いで、やっぱり今日は行けないの、ごめんね、などと言われるような展開も予想していたから、本当に結衣子が来るのだという事がはっきりして、信吾の心の中では、ようやく緊張と実感が渦を巻きながら混ざり合って、その色が少しずつ濃くなり始めていた。
高校時代の陸上部の同期の連中が、結衣子を使ってドッキリ大作戦でも仕掛けているのだろうか?そう思いながら左手で掃除機のスイッチを入れて、右手でメールを返信する。
「Re:了解、気をつけてね」
それからも、どうして結衣子が急に信吾のアパートに一人きりで遊びに来るなんて言い出したのか、信吾はその理由をもう一度考えようとしてみたが、やはりドッキリ大作戦以外は見当がつかなかった。
仲が良いとはいっても、恋人でもない男子の家に一人で遊びに来るなんて、結衣子はそういう事にはきちんと一線を引いて人と付き合う真面目なタイプのはずだった。
そしてなによりも…と考えている途中で、またメールの返信が来た。
「Re: Re:今電車に乗ったよ!」
友達以上恋人未満。
過ぎ去りし高校三年間での二人の間柄を説明しろと言われれば、そんなありきたりで、都合のいい一言だけで十分だった。
そもそも信吾は、大学での新生活が始まってしまえば、結衣子は自分の事なんて次第に忘れていってしまうものだとばかり思っていた。
高校生の頃、あの頃は誰もが結衣子に夢中だった。
殺人的にキュートな笑顔、すらりと伸びた美しい肢体、透明感のある白い肌、おまけに成績も学年トップクラスの、絵に描いたように完璧な女の子。
そういうと冗談みたいに聞こえるけれど、間違いなく遠藤結衣子こそは、一目惚れをしてしまった信吾だけに止まらず、多くの男子達の熱い視線と妄想の対象物であり、また多くの女子達の羨望と嫉妬の対象物であり、そして、あの時あの場所にいた全てのティーンエイジャー達の、絶え間なく移ろう世界の静止点そのものだったのだ。
加えて少し貧血持ちで、集会や行事がある毎に急に倒れたりするという、儚く可憐な特典付きで、信吾は尚更彼女から目を離すことができず、一度原因不明の体調不良で救急車が学校まで来てしまった時などは、安否が分かるまでほぼ一日中、何を食べて誰とどんな話をしたのかも全く覚えていないくらいに気もそぞろだった。
高校が同じ、学年が同じ、部活も同じ、二年生からはクラスも卒業まで同じ。
奇跡的な条件がいくつも揃ってはいたものの、未だに信吾にはどうしてあの結衣子に親友と呼ばれるまでの仲になれたのか、良く分からない時がある。
もちろん彼女のことは初めて目にした時からずっと好きだったけど、それは道端で風に揺れているだけの猫じゃらしみたいに、どこにでもあるようなありふれた片思いで、積極性があまりない、どことなく受け身な姿勢もある信吾が密かに想いを寄せた所で、どうにかなるような話ではなかった。
もう終わりにして、ひたすらに不毛なだけの恋心なんて、早いところ忘れるべきで、大体、独りよがりな叶わぬ恋に固執するなんてあまりにも痛すぎる、とごちゃごちゃと考えながら自分自身を説得していた矢先に、急に彼女が一人で信吾の家に遊びに来るなどと言い出したのだった。