【再掲】青い毛布(8/12)
コンビニで花火とライターを買って、そこからまた駅の近くの公園に向かうと、誰もいないせいなのか、昼間に比べると奇妙なくらいに広々と感じられる夜の空間がそこにあった。
静まり返った公園の暗闇の中で、ブランコの近くに植えられている紫陽花だけが際立って、夜風に吹かれて淡くゆらゆらと揺れているのが見える。
時計台を少し離れた滑り台の近くで、ビニール袋から取り出した花火セットの封を開けて、取り出したひとつに火を点けようとすると、風が少し強くなってきたせいか火がうまく点かなくて、二人でかがんで風を通さないようにしてから、もう一度そっと花火に火を点けた。
ライターの灯りが、結衣子のほっそりとした足首をぼんやりと照らす。
「ねぇ、本当はね、今日は信吾にずっと話したかった事があるから来たんだよ、聞いてくれる?」
「…うん、何の話し?」
風のせいか花火はすぐに消えてしまって、また新しいものに火を点けた。パチパチと音を立てながら閃光を散らす色鮮やかな花火を見つめながら、結衣子は静かに話し始めた。
「三年生の時のさ、三学期が始まったくらいにさ、私一回、救急車で運ばれたの覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「あの時ね、私ね、赤ちゃん流産したんだ」
信吾は思わず結衣子の顔を直視する。
花火が燃え尽きたせいで、その表情を上手く読み取る事はできない。
「妊娠してから、一人で病院行ったし、親にもずっと言えなかったんだけど、あの時に全部ばれちゃった。
私はね、先生の赤ちゃんが自分のお腹の中にいるんだって分かった瞬間にね、どうしてもこの子を産まないといけないって、なんでか良く分からないけど、強く思ったんだ。
先生にもね、お腹の赤ちゃんを殺せないって言ったの。そしたらね、先生の態度がね、急に変わったっていうか、今まで見たことのない、本当に冷たい顔になってね、今だったら意識もないし、体もできていないって言うの。
それからね、私のお腹を見ながら、まだそれは人間じゃないって、だから今のうちに堕ろしてくれって、そんな事まで言ったんだ。
……あの人も奥さんがいるし、他にも守らなきゃいけないものがたくさんあるって分かってるけど、でも、その言い方がすごくショックだった。
あぁ、この人は、こういう事を平気でスラスラ言える人だったんだなって。私はどうしてこんな人を今までずっと好きだったんだろうって、なんか色んな事が悲しくなって、信じられなくなって、何日も口をきかない日が続いて、そしたらそんな風に過ごしている時にね、いきなり流産したんだ。
授業中になんとなく具合が悪いと思って、保健室に行って寝てたら、急に血が出て止まらなくなってね、最後は救急車が来てさ」
結衣子はその時の、不吉な暗い血の色を、今でも鮮明に覚えている。
「何が原因だったのかは分からない。でも、産まれてくる事を望まれていない事が、お腹の赤ちゃんに伝わったのかもしれない…」
夜の公園は相変わらずとても静かで、近くを通り過ぎた消防車のサイレンだけが、静寂を切り裂くように鳴り響いて、またすぐに遠のいていった。
「病院に運ばれてからね、結局手術になっちゃって。知ってる?流産とかでね、出血が薬ではどうしても止まらない時はね、子宮の中を掻き出しちゃうの」
——指を入れます、今から器具を入れます、力を抜いてください、次は麻酔です…
感情のこもらない、あの時の医師の無機質な話し方が、結衣子の頭に一瞬よぎる。今でも夜が来るたびに、その声を思い出して、結衣子は上手く呼吸ができなくなる。
そして手術が終わって時間が経つうちに、体の痛みや、赤ちゃんがいなくなった後のお腹の冷ややかな感覚も、忘れたくないのに、どんどん薄まっていく。それがより一層、結衣子を苦しくさせた。
「それからまたしばらくしてね、生理がぜんぜん来ない事に気づいたの。妊娠してからは一回もエッチしてなかったし、変だなと思って、不安で病院にまた行ったらね、検査になって、その後に、あなたアッシャーマン症候群って聞いたことある?って急に言われて。
ありませんって答えたら、その先生が言うにはね、中絶手術をした人なんかが稀になる病気なんだけど、子宮の中が傷ついたりすると起こる病気なんだって。
最近は滅多にない事だし、その先生も初めて見たらしいんだけど、あなたは今の状態だと、もう妊娠できない可能性がすごく高いのよって言われたの。検査の結果、あなたの場合は症状がとても重くて、治療をするのもすごく難しいって」
淡々としていたはずの結衣子の声は、いつしか震えて、か細くなっている。
「その後、他の病院に行っても同じ事言われて、それからはどうしてこんな事になったのかって、毎日夜になると考えるんだ。
考えても仕方ないって分かってるのに、どうしてもそんな事ばかり考えるんだ。もしも流産しなかったら、もしもちゃんと避妊してたら、もしも先生なんかと付き合わなかったらって……。
もしも、もしも、もしもって、毎晩そんな事ばっかり考えて……。そしたらね、なぜかいつも最後は、信吾の事を思い出すんだ。
最近もね、先生もあれ以来連絡が少なくなって、一人でいることが多かったし、なんかずっとモヤモヤしてたんだ。
そんな時、信吾の事を思い出して思ったんだけど、考えてみたら、高校の時からね、悩み事とか将来の夢とか、いつもそばにいて話し合ってたのって、先生じゃなくて信吾の方が多かったんだよね。
先生とはね、仲は良かったけど、正直セックスばっかりだった。そんな風に思ってたら、いつの間にかどんどん信吾のことばかり考えるようになっていって、なんだかだんだん会いたくなって、なんだろう、一度会えば、この気持ちに整理がつくかもしれないって思って、何か考えが変わるかもって思って、一日だけでもいいからさ、信吾の彼女になりたいなんて馬鹿な事まで本気で考えて…」
相変わらず、花火は夜風にさらわれるように、すぐに消えてしまう。
「…中途半端に好きになって、勝手に押しかけてきて、いきなりこんな重い話しはじめて、すごい迷惑だよね、ごめん、本当にごめんね…」
今にも泣き出しそうな結衣子にそう言われても、返事をする事ができず、信吾はしばらく黙り込んだまま、消え入りかけた線香花火の光をじっと見つめていた。その光がまた消えると、長い長い沈黙が訪れて、そしてその後に信吾は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと呼吸を整えた。
「…結衣子、もう連絡したり、こうやって会ったりするのも、これきりにしようよ」
信吾の別れの通告に、結衣子は目の前の景色が一瞬だけ歪んだような気がした。視界の歪みは、頬を伝って落ちていく熱い液体の感覚に変わっていく。
やっぱり信吾には迷惑だったのだ、当然そう言われる事も覚悟しておくべきだったのだと、結衣子はうつむきながら後悔しかけたが、信吾の意図はそうではなかった。
「…それでも結衣子は、浅野先生のことが、今でも好きなんでしょう?」
信吾がそう聞くと、結衣子は驚いたように信吾の顔を見上げた。
しばらく間があった後に、結衣子はうなだれて、そして静かに肯いた。言われてみて始めて、心の奥底でわだかまって曖昧になりかけていた部分を、はっきり垣間見せられた気がした。
結衣子が否定してくれる事をどこかで望んでいた信吾は、胸の内に急速に広がっていく、説明のつかない虚しさを無理矢理に抑え込んで、話しを続ける。
「結衣子にとって、本当に何が大切なのかを考えたら、結衣子が今、たくさん話をしなきゃいけないのは、やっぱりオレじゃなくて、浅野先生とだと思うんだ。オレといると、本当の気持ちがどんどん曖昧になる。だから結衣子、今日会った事は誰にも言わないよ。二人だけの秘密にしよう」
「…うん」
話が途切れて、沈黙が生まれて、それを埋めるために線香花火にまた火を点けた。
細やかな音を立てて火を散らした後に花火は地面に落ちて、その熱を土に奪われていくと共に、次第に光を失っていった。
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