![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/23756742/rectangle_large_type_2_15acaad83946eec739eb8a1216b2a0c4.jpeg?width=1200)
【再掲】青い毛布(2/12)
ある朝、宮島信吾は会社に行く途中、駅のホームで丸々と肥った男に突然声をかけられた。
見覚えのない相手の顔を、判然としないままにしばらく見つめ続けていると、相手は親しげに「高校の……」とか「陸上部が……」などの身に覚えのある話をし始めて、そしてその口から共通の友人の名前が幾つか挙がった所で、ようやく信吾は目の前の男が高校時代の同級生であり、陸上部の同期である事に気が付いた。
いくら声が変わらないとはいえ、長距離走の選手で、かつては誰よりも痩身だった昔の友人と、目の前の顎と首の境目が分からないくらいにまでよく肥った男とが、どうしても同一人物とは思えなかったのだ。
元長距離ランナーは、すっかり短くなった(ように見える)腕を伸ばして、嬉しそうに信吾の肩をぽんぽんと二度叩いた。
「それにしても、信吾は全然見た目が変わらないな。ピーターパンみたいだ」
「……当たり前だろ、オレ達まだ、ぎりぎり二十代だよ?」
相手の腹の贅肉を片手で掴みながらそう言うと、いやぁ運動やめてから一気に太っちゃってさぁ、と、旧友は大きな体を揺すりながら屈託なく笑った。
「そういえばさ、今度の遠藤さんの結婚式の二次会行くよな?信吾、お前仲良かっただろ?」
ふいにその名前を出されて、信吾は一瞬動揺したが、何かを悟られないように冷静を装う。
「……結衣子が?へぇ、結婚するんだ…。なんか、懐かしいね」
「あれ?もしかして知らなかったの?」
相手はそういうと、意外そうに信吾を見つめる。
「……信吾ってさ、インスタグラムとか、フェイスブックとかやってる?」
「……いや、何も」
「やっぱさ、今時SNSくらいやっとかないと、浦島太郎になっちゃうよ?」
そう忠告されるのと同時に向かい側の路線に電車が滑り込んできて、相手はそれに乗ると、今度飲みに行こうな、と別れ際に一言言い残して、そのまま閉まる扉の向こうへと姿を消した。
その後信吾は会社に出勤してからも、インターネットの検索欄に結衣子の名前を入力したり削除したりを何度も繰り返して、あの頃と今との埋まらない空白を持て余していた。
それから午後のミーティングまでに必要な書類を全て整理し終えると、椅子の背もたれを倒して固定し、オフィスの白い天井を長い間見上げていた。
あの日から十年。
あっという間だと言われればそんな気もするが、それでも、それはあの痩せていた友達が別人のように様変わりするくらいの年月でもあった。
あれから、それなりに忙しい学生生活を過ごして、運良くそれなりの会社に就職して、その間になんとなく波長が通じるような相手と、何度か恋もした。
特に大きな出来事もなく、淡々とした日常が静かに流れていって、気づいたらもう二十代が終わろうとしている。
「宮島さん。内線三番、人事部からです」
急に呼ばれて受話器を取ると、人事部長が電話の向こうで声を落として喋り始めた。
「……宮島君さ、今忙しい?」
「今ですか?昼までなら手は空いてますが?」
「本当に?それなら良かった!」
相手は一瞬声を弾ませると、そこからまた声を落として、話の用件を伝えてきた。
「……実はね。来年入社予定の学生と一時間ばかり話しをして欲しいんだよね。聞かれる事に簡単に答えるだけでいいからさ……。実は内定者面談で、他の社員と話しをさせる予定だったのが、こっち側の調整ミスで都合がつかなくなっちゃってね……。今もロビーで学生をかれこれ一時間も待たせている状態なんだよ……」
「それは可哀想ですね。……いいですよ。今からすぐに向かいますから」
結局、気持ちに何一つ整理のつかないままに一日は過ぎてゆき、信吾は帰りの電車でつり革につかまりながら、窓ガラスに映る、眉間にしわを寄せた自分の顔をじっと見つめる。
家路にたどり着くと、スーツも脱がないままにベッドに横になり、天井を見つめながらボンヤリと考え事をまた始めた。
そしてしばらくしてから思い出したように起き上がって、クローゼットの一番奥から、銀色の地球儀のような物を取り出す。
「ねぇ、それ何?」
それまでテレビを観ていた恋人の沙希が、不思議そうに信吾の手元の球体を見つめている。
「……プラネタリウム。学生の時にさ、友達がくれたんだよね」
そう言いながら、部屋の明かりを消して、それからテレビを消してもらい、久しぶりにそれを暗闇の天井に映してみると、機械はほとんど昔と変わらないままにスムーズに作動した。
星たちがゆっくりと部屋の空間を埋め尽くしていくと共に、その中で信吾は、あの日の結衣子の、声や輪郭や肌の温度や白い首すじや、頬に触れてきた時の、華奢で冷ややかな指先の感触を、何度も何度も思い出そうとしていた。
顔も声もぼんやりとしか思い出せないのに、そうしていると結衣子の気配だけが次第に体の中に入り込んでくるような感じがして、締め付けるような息苦しさに耐えられなくなった信吾は、プラネタリウムのスイッチを唐突に切った。
そしていつの間にか、隣で仰向けになって天井を一緒に見つめていた沙希は、体を起こして信吾の顔を覗き込む。
「あれ?もう終わり?」
「……うん、なんか眠くなってきちゃって」
それから、体をぴたりと寄せてくる沙希の頭を撫でながら、真っ暗な天井を見つめていると、疲れのせいか、本当に瞼がだんだん重くなってきた。
「沙希」
「なに?」
「……燃えないゴミの日っていつだっけ?」
明後日だけど……、と答えながら、沙希は信吾の手元にあるプラネタリウムに一瞬視線を移す。
「……捨てちゃうの?」
「うん、必要ないものだし、もう会わないと思うから」
……そうなんだ、と言いながら、沙希は信吾の横顔を窺い見ようとしたが、部屋が暗くてどんな顔をしているかが分からなかった。
しばらくお互いに何も喋らないままでじっとしていると、暗闇の中で、二人の呼吸する音だけが、やけにくっきりと聴こえてきた。
「……信吾」
「なに?」
「スーツ皺になっちゃうよ?」
「うん、わかってる」
そう言われても信吾は重々しい眠気に勝つことができず、意識がゆっくりとまどろんでいく中で、静かにその瞳を閉じた。