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【イ・ラン×いがらしみきお 往復書簡・登場作品紹介1’】ゴルギアス『非存在について』

韓国のアーティスト イ・ランと『ぼのぼの』の漫画家いがらしみきおによる往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』。二人の手紙に登場するさまざまな映画や本をご紹介します!

【前回のあらすじ】
AIが登場する作品を取り上げながら「100%の自分とはなにか」と悩むイ・ランさん。ロボットと人間の境界線をいがらしさんはどのように考えるのでしょうか。

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イ・ランさんが取り上げた映画『アンドリューNDR114』。ロビン・ウィリアムズ扮する”人間になりたい家事ロボット”のアンドリューが周囲から人間として扱われなかった理由を、いがらしさんは「脳が電子頭脳のままだったから」だといいます。

逆に、脳が人間で他の肉体はどれだけ機械だったとしても、その人はたぶん「人間」として扱われますよね。やはり人間かロボットかを分けるのは脳ということになる。

そして、ロボットが人間のつくったプログラムを「暴走」によって超えることで、はじめてロボットはAIになるというのです。

AIというのはプログラムで、アンドリューの頭脳もプログラムでしかない。人間がつくったプログラムどおりに動いているものAIとは言わないでしょう。…アンドリューが「人間になりたい」と思った瞬間が、AIになった時と言ってもいいかもしれない。

いがらしさんが言うように、「脳のあるなし」を基準にすれば客観的に人間とロボットを区別することができる。だけど今まさに目の前で話している相手の頭蓋骨の中に脳があるかどうかは確認することができないですよね。とするならば、目の前の相手が生身の人間なのか、それとも「意思を持った」AIなのか判断することはできないということになるわけです。

たとえ「あなたの頭の中には脳みそがありますか?」と聞いたとしても、”頭が良い”ロボットであれば「そりゃそうだろう!」なんて怒り出すかもしれません。さっき一緒にお昼を食べたタバブックスの宮川さんはもしかしたらロボットかもしれない…。

そんなSFチックな妄想に寄り添うように、いがらしさんは「AI的に物事を捉えてしまう癖」があるかもしれないとご自身を分析します。

(以前話した)哲学というのは、強引にたとえてしまうと、AIになって考えることかもしれない。…AIには「私」ということがわからないし、ほんとうに「認識」しているとは言えないし、「言葉」の意味についても理解しているとは思えない。

そしていがらしさんは、古代ギリシアの哲学者であるゴルギアスが『非存在について』という著作で唱えたとされる「三つのテーゼ」を引用します。

1. なにも存在しない
2. もし存在するとしても決して認識されない
3. もし存在が認識されたとしても決して言葉では言えない

たとえば、普段私たちは自分自身のことを「私」と認識しているつもりでいるけれども、「じゃあ『私』って一体なんなんだろう?」「どこからどこまでが『私』と言えるのだろう?」と考えてみると、途端に「私」という存在の認識が揺らいできてしまいます。(たとえば切った爪は「私」と言えるのか?)

このテーゼを反証できないのであれば、「私」はそもそも「存在していない」ということになってしまう…。いがらしさんいわく、これが哲学の出発点という人もいるそうです。

いがらしさんは、子ども時代に抱いた「疑問」を振り返りながら、ご自身もこのゴルギアスのテーゼを否定できていないといいます。

もし、この3つのテーゼのとおりなら、人間もAIも変わらないのではないか、なにもわかってないのにわかったふりして、言葉でイメージを作り上げているだけではないか、と考えるようになりました。

そして手紙の内容は「お互いの家族」のエピソードへと続いていきます。

イ・ランさんの「100%の自分とはなにか」という悩みに対して、ゴルギアスのテーゼを引きながら「悩みに寄り添う」かたちでいがらしさんの返信が綴られる。一つの作品から広がる二人の想像力が本当に面白いですよね…!

それでは次回もお楽しみに!

(椋本)

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