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生きるためのフェミニズム おしゃべり会 第2回 ゲスト:小山内園子(韓日翻訳者)

堅田 「生きるためのフェミニズム おしゃべり会」第2回は韓日翻訳者の小山内園子さんをお迎えしました。小山内さんのキャリアに関心があって、もともと NHK のディレクターをされていらっしゃったんですよね。そこからどういう経緯で翻訳するようになったり、社会福祉士として女性相談のお仕事をするようになったのか。大きい会社をやめて、1人で何人分もの人生を生きてる、いろんなお仕事を経験されている、その生き方みたいなのを話せる範囲で構わないんですけど、ちょっとお話してほしいなと思って。
小山内 今何か大きな渦に飲み込まれている感じが…(笑)私のお話ですか。
堅田 やり方違う私…?大丈夫ですか?
―いいですよ、おしゃべりだから(笑)。お互いに興味がある、すごく会いたいとそれぞれおっしゃっていたのがどうしてなのかなというのもありましたから、その流れで…

お仕事の経験が、翻訳に分かちがたく結びついてる

堅田 小山内さんの翻訳を読んでいると、小山内さん自身がいろいろされてきたお仕事の経験っていうのが、分かちがたく結びついてるっていう感じがすごい伝わってくるんですよ。だからその翻訳の話に入る前に、そういったお仕事の経験の話をちょっと聞いてみたいなと。
小山内 行き当たりばったりっていうか、すごくざっくり言っちゃうとそうなっちゃうんです。青森の出身なので、子どもの頃はマスコミっていうと地元紙か朝日新聞かテレビ局ってイメージで、しかも民放が二局ぐらいしかないので、NHKの方が身近で。バラエティーやドラマよりドキュメンタリーがやりたいっていうことで入ったんです。NHKでは一つ企画をやって終わると、打ち上げして次の企画探して、はじめは7分、次は30分、次は「NHKスペシャル」ってなんとなく目指す方向がある程度決まっていて。でも、それって全然やりたいことと違う。マイノリティーの声を伝えたい、自分のやっている仕事を疑わなくてすむ仕事がしたい、と思ってやめたんですよね。社会福祉士の資格を取る間に、今いる NPO に女性支援のボランティアで入りました。でもそうすると、マスコミは鳥の目で、現場は虫の目で、虫は虫の目で見てるんですけど虫の世界で終わるっていうか。聞いた言葉がアウトプットもせずに、そのうち虫の現場の理屈で、日々自分が変えないように支援していく、それもなんか違うよねって思ったりして、そのときに『冬のソナタ』でヨン様に出会って韓国語を始めて。多分全部が結びついたのは2007年に社会福祉士の研修で1ヶ月だけ海外に行けることになって、韓国の女性団体、シェルターもやってて DV も性暴力も支援をするっていうところに行ったことです。そこにいた方々は、人生を、ある程度不幸になっても変えていくって悲壮な覚悟でみんなその運動に入っていたんです。
堅田 もう後戻りできない感じ。
小山内 そうですね。韓国って親族との絆がすごく日本より強いので、そういう活動に身を置いてると結婚もしないし、女性としての幸せを捨てて何馬鹿なこと言ってんだと親に言われるとか。そういう人たちからすると、外国人でぴょんといって、ヨン様好きで韓国語をやりましたって、もうボコボコにされる対象ですよね。でもそのときに初めて多分本当に好きになったんだと思う。ただ、そこから翻訳に繋がるまではすごく長い間があったんです。
堅田 自分のやっていることを疑わなくてすむ仕事がしたいと思って、そこで仕事をやめて、新しいことを始めて…社会福祉士の資格も、私は社会福祉学科で学んだにもかかわらず取得していないし、社会福祉の大学で教えてたからその資格を取得するのがそんなに簡単なことじゃないっていうこともわかってるし、行き当たりばったりっておっしゃってたけど、何かすごく強い意志のようなものを感じました。ご自分は、自然に生きてるだけかもしれませんが。
小山内 嫌なことが嫌すぎたんだと思うんです。辞める直前って永田町担当のディレクターで、なんか麻痺していきますよね。大物政治家に出演してもらうために平気でミニスカートとか着て、上目遣いで首を傾げて見つめてるとか…ずっとそういう仕事してるとバッカじゃねえのって自分で自分のことを思うようになって。あのときはそういうふうに、しなやかに超えるとか、女を逆手に使って男にできないことをするって思い込んじゃってた。今思うとあのままいて上司になって女性の部下が来たときに、同じことをさせたかもしれない。それってたぶん家庭でもそうですよね、お母さんたちって、我慢したり、不自然だと思っても飲み込んで、娘に同じことを言うのと一緒で。なのでやめてよかったなって。
堅田 何気なくやってたんだろうけど、すごい削られてるんですよね、きっと。多分そうやって働いてる女性もみんなめちゃめちゃ削られてて血だらけなんだけど、自分の痛みになかなか気づけない。小山内さんはそのことに気がついたってことなんだなって思いました。

原文読んでると、あ、この人あの人に似てるなっていう「あの人」が多い

堅田 やっぱり今話聞いて、小山内さんのお仕事の経験とか考えてきたことって、翻訳の仕事にすごい根底で生きてるんだなって。私もともと小山内さんの翻訳のスタイルがすごい好きで、一番は、なんていうんだろう…「何とかかしら」とか「なんとかよね」みたいな「女言葉」を使わないじゃないですか。小山内さんは当たり前にそうやってるんだと思うんですけど、いまだに意外とそういうの多いから、読者としてほんっとに嬉しいんですよ。絶対いやな気持ちにさせられないことがわかってるから、安心感を持って読み進められる、それすごい大事なことだなと思って。あと、今回お話させてもらえるってことでもう1回いろいろ読み返したりして改めて思ったのが、小山内さんの訳って、なんていうんですかね…いい意味で個性がないっていうか。いろんな種類の本を訳してるじゃないですか。小説を訳してるときの言葉選びと、イ・ミンギョンさんみたいな本を訳すときの言葉選びがもう全然違うんですよ。それを通してオリジナルの書き手の人のそれぞれの味とか、手触りみたいなものがそのまま伝わってくる文章で、ユーモアがあったり、その書き手の人柄も感じられる書き方でそれがすごい面白いなと思って。いろんなお仕事をしてきて、あと今の仕事の中で多分いろんな女性のお話を聞いてきたから、小山内さんの中にいろんな生活の引き出しがあって、だからそういうふうなお仕事ができるのかなと思ったんですよね。それがめっちゃ文章に表れてて、なんか、カメレオンみたい!って。
小山内 ありがとうございます(笑)でも他の翻訳者も多分カメレオンはすごく意識をされているとは思うんですよね。私に得なことがあるとすれば、多分不特定多数の人の会話を聞く仕事を一方でしてるので。みんな語尾が違うし、主語も違うし、イントネーションとかトーンも違うっていうのを経験してるので、それは単に場数っていうか。原文読んでると、あ、この人あの人に似てるなっていう「あの人」が多いだけと思って。あ、私からも質問していいんですよね?
―もちろん。おしゃべりですからね(笑)

労働のフィールドからも、路上のフィールドでも女性は消されちゃう

小山内 堅田さんの本、いっぱい刺さることがあって、でも一番今日話したいなと思ったのがホームレスの方とのことで。NHKにいたとき、新宿に動く歩道ができてホームレスの排除の問題があって。動く歩道ができる前の新宿駅西口のダンボールハウスに泊まり込んだりとかやってたんです。番組にするのって、わかりやすい理屈ってやっぱりあるんですよね。例えば都庁を建設するために建設業に行った大多数の人たちが日雇いで、ここに集まってきて都庁を見ながらダンボールハウスで暮らすとか、非常にわかりやすい論調で当時メディアにも取り上げられる。だからわざわざホームレスの人に新宿中央公園に行ってもらって都庁をバックに撮影するっていうこともやったりするわけです。あと、もうみんな慣れてるので臭いとか、そういう顔って通行人はしないのに、わざわざそういう顔してる人狙って撮ろうとかする。いっぽうで一番自分が不思議だったのは、なんでここ懐かしいんだろうと思って。村っていうか、あんまり序列もないし、明らかにこう…欠損を抱えてる人たちだけが集まっているって感じが逆に平等で、妙に居心地がよくて、これってある種の一つの社会の理想だなっていうようなことをちょっと思って上司に言ったんです。もちろん通用しないんですよね。まだ入局して、4、5年なので何言ってんだバーカみたいな感じで終わるんですけど。ただ、なんであのときにそういうふうに思ったんだろうっていうことと、堅田さんが、ヤスオさんに缶コーヒーを渡す、あそこを読んでたときに、違ったんだなって思って。あれは単にホモソーシャルな空間で、ほとんど、というか全員男性のホームレスで。ホモソーシャルな村ができていて、そこにテレビ局に勤める若い女が来て、みんな嬉しく楽しくいろいろしてくれてたんだなということも含めて、それをいいな、共同体だなと思っちゃった私、多分見えてなかったんですよね。私が正当に認められてここにいられてると思っちゃってた。だけどこの本を読んだら、違ったんだなとか、いくつも階層があって、傷ついた人が傷ついた人をわかるわけではないっていうか。だからその部分で堅田さんが路上生活者に惹かれる…惹かれるっていう言葉がいいのかどうかわからないんですけど、一番何がご自分を引きつけてたと今思っておられるのかなと聞いてみたくて。
堅田 私も青森ほどではないけど (笑)そこそこの田舎から東京にやってきた組で、初めてみた都市の景観っていうのにまずびっくりしたんですよね。電車って6両もあるのに「短い6両編成」って言われるんだとか、いちいちそういうことにびっくりしていて、そのびっくりしたことの一つが、野宿してる人が普通にいるっていうことで。ただ私の場合は、最初にお話するようになって仲良くなった野宿の人が、たまたま女性だったんですよ、この本にも出てくるタネさん。彼女は全然群れてないの。新宿とかだと割と路上コミュニティが形成されてたりっていうことも特に90年代はあったと思うんですけど、タネさんは本当に1人ででっかい木の下に住んでいて、いつも1人なんです。女性だったからかもしれないし、いろんな理由がきっとあったと思うんですけど。私にとっては、最初に出会った野宿の人がタネさんだったというのがとても大きかったと思います。本当に大変な人生を生きてきたと思うし、私なんかには到底想像もできないようなしんどい思いもいっぱいしてきて、だけどなんか、すごくかっこよかったんですよね。タネさんのことが大好きでした。でも自分が感じたタネさんに対する思い、かっこいいって思ったことと、社会がタネさんに下す評価がすごく乖離してるっていうことにも気がついて。社会はタネさんのことをダメ人間とか、社会にとって不要な人みたいにジャッジしていて、ましてやかっこいいなんて評価しない、そのギャップにすごい戸惑っていたっていう感じですね。ホモソーシャルってことで言うと、路上って本当に女性が少ないじゃないですか。厚労省の調査でも全体の数%で。路上っていうフィールドで女性の姿がある意味消されている。それこそ『失われた賃金を求めて』にも、女性が労働っていうフィールドからどんどんどこかに姿を消されてしまうっていう話があって、労働っていうフィールドからも、路上っていうフィールドでも女性は消されちゃう。もちろん路上と労働はちょっと違うけど、結局家族みたいなものに囲い込まれちゃうっていうのは共通してるのかなってちょっと今、思いました。
小山内 韓国の『中央駅』という小説は男女の路上生活者が主役で、路上で恋をして、幸せな結末ではないんですけど、それ読んだときに、日本で女性と男性のホームレスが恋をしてるって場面があまり浮かばなかったので、あの小説読んだときも、ちょっと綺麗に書いてるのか、韓国ってそんな女性ホームレスいっぱいいるのかっていろいろ日本の現状と比べて考えるところもあったんです。今お話伺って、確かに日本でなんで女が見えなくなっちゃうのかな?何かそもそも全部間違ってる気がするんですけど…
堅田 貧困研究の中でも70年代後半くらいから「貧困の女性化(feminization of poverty)」っていうことが言われ始めて、それで90年代になって国際比較とかすると、日本は「先進国」の中で唯一「貧困の女性化」現象が見られない国だったんです。でもそれは、それだけジェンダー平等が進んでいるということではなくて、むしろ離婚率の低さとかが関係している。つまり日本では、女性の経済的・社会的地位が低いから、女性が夫の扶養を離れて独立することが難しくて、なかなか家族から逃れることができない。それで、皮肉にも、日本の女性は貧困にすらなれないっていう。そんなことが指摘されてきました。たとえ暴力があっても家族の中に女性が囲い込まれていたり、で、貧困も暴力も顕在化しにくかった。そういう状況って、女性の貧困が「社会問題」化しつつある今も、たぶん大きく変わってはいないのかなって。路上での恋のお話、読んでみたいです。
小山内 現実的にあるかどうかわからないんですけど、その小説自体は非常に支持を集めた作品なんです。『娘について』というレズビアンの娘を持つ介護職のお母さんを描いたすごく有名な小説があって、それと同じ作者なんですね。中央駅自体は架空なんですけど明らかにソウル駅で、だいたいイメージがつく。この辺にいるなってのは。言われてみると女性もいたなという感じはするんですけど。横浜の支援団体にいるので、女性ホームレスのことは聞くんですけれども、なんとなく売春っていうことと絡めて言われる。ホームレスとしての扱われ方じゃなくて、売春の話で言われてしまって、いつもプレーヤーになってない、貧困でもないし被害者にもさせてもらえない。この間の小田急の事件なんかもそうですけど、女を狙ったって言ってるのに、「いやいやいや」ってどうして思えるのかよくわからなくて、子ども狙ったとか年寄り狙ったって言ったらみんな一斉に言えちゃうんですよね。なにがそんなに不愉快なのかなって。とにかくプレーヤーっていうかリングに上らせないとか、数字に出させないとかっていうことは、最近、ますます感じる…
堅田 それで思い出したけど、フリーターっていう言葉が出てきたときも、国の何かの最初のフリーターの定義から(学生と主婦は除く)って書かれていた(注)。つまり、たとえば男女のフリーターカップルが一緒に暮らしながら2人ともコンビニで働いてたとして、その二人が籍を入れたとたんに、女性の方だけフリーターとして統計上カウントされなくなる。女性の非正規雇用の問題は、そこで統計から消えちゃうんですよね。すごい謎じゃないですか。この女性からしたら、籍を入れる前と後で暮らし方も労働の仕方も変わってないのに、ただ籍を入れただけで女性の非正規雇用の問題が、統計から消えてしまうっていう。そういうことがいろんなところにありますよね。

注 内閣府の定義では「15~34歳の若年(ただし、学生と主婦を除く)のうち、パート・アルバイト(派遣等も含む)及び働く意志のある無職の人」(「内閣府「平成15年版国民生活白書」)とするとあったり、厚生労働省の定義でも「15~34歳、卒業者であって女性については未婚の者とし、さらに(1)現在就業している者については勤め先における呼称が『アルバイト』または『パート』である雇用者で、(2)現在無業の者については家事も通学もしておらず『アルバイト・パート』の仕事を希望する者」(厚生労働省「平成15年版労働経済白書」)としていて、主婦、既婚女性は除外されていた。

女性の能力が正当に評価されていないー裏返すと能力主義的なものを肯定している面もある

小山内 堅田さんの魔女繋がりで、駒尺喜美さんの『魔女の論理』をもう1回読んだんです。駒尺さんで最初に読んだのは高村光太郎と智恵子の本で、両方芸術家でわりと当時でいったらイケてる男、妻も才能もあるとか言っていても、結局家事をしなきゃならなくて部屋もなくて自分の仕事をしようと思ったら矛盾に陥るので、智恵子的にはああいうふうになっちゃう。本当に自分1人の部屋もないし、稼ぎを取ろうとしてもそれにまず投資する機会もないし、何も変わってないって。よくこんなに変えなくていられるよね、とちょっと愕然とはしますよね。難しいんですよね。
堅田 女性が家族に囲い込まれることで、労働のフィールドからも路上のフィールドからも消されちゃうみたいな話に関係するかもしれないけど、やっぱり女性がひとりで生きるっていうことが圧倒的にしづらいですよね。家族を形成しないで妻役割も母役割を引き受けずにひとりで生きるっていうことが許されがたい状況がすごいあるなって。
小山内 女性施策だけ見ても、子どもがいる、「母親」だと施策のメニューが増えるとか、世帯ごとでの支援だから世帯主の意向がなければ利用できない、たとえばコロナの支援金さえ個人で受け取りづらいとか、なんでそういうことがわからないままというか、意識しないで…あとなんていうんでしょうね、どっちが卵でどっちが鳥かわかんないんですけど、今の日本で声が変えられるのって政治、選挙しかないじゃないですか。そうするとじゃあそういう声を代弁するような政治家を選ぶっていうのが唯一実現性のある抵抗なんだと思うんですけど、多分今の世の中で政治家になりたくなる人少なくなるだろうなって。
堅田 有権者としても入れたい政治家がいないです。いつもいつも何かこう、こうやって(目をふさぐジェスチャーをして)入れるみたいな。
小山内 本当に究極の選択で、生物学的に女性なんだけれども、思想信条的に全く許しがたい女性政治家と、生物学的には男性だけど、思想信条的にはかなりフェミニズムを理解されてるなってときにどっちに投票するかっていうのはイ・ミンギョンさんを訳してるとき自分の問題として考えこんじゃって。女性政治家を増やした方がいいってことももちろんわかってるんだけど、この人物に票をやるのか、みたいな人なんかも出てきちゃうんですよね。それは立候補する手前で可能性をもぎ取られてる女性が多すぎるので、政治家になれる人がたぶん出てこれないし、オードリー・タンみたい人が日本にいても同じような仕事は多分できなかったと思うので、結局げんなりって感じ。
堅田 『失われた賃金を求めて』でのイ・ミンギョンさんとか、特に『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』のキム・ジナさんは結構イケてる女性じゃないですか。成功してるというか…事業主としても成功してるし、政治の場で活躍しようということ模索したりとか。女性の活躍をわりと素朴に言っているような側面もあって。そこで能力主義みたいな問題をどう考えるのかなって。女性の能力が正当に評価されていない、っていうとき、その言明って裏返すと能力主義的なものを肯定している面もあると思うんですよね、人は能力に応じて評価されるべきだ、と。そうなると、能力がないとか、社会的生産性がないとみなされちゃう人とか、障害のある人とか福祉受給者の人たちが見落とされがちになるし、そもそも能力で人を分断するような能力主義こそがおかしいって訴えることが難しくなっちゃうっていう感じがしたんですよ。

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なんだけど、小山内さんはこういう本だけじゃなくて『彼女の名前は』とか、カン・ファギルさんの『別の人』を訳されてるじゃないですか。その小説の中ではそういうキラキラ活躍系の女性はほとんど登場しない。むしろ不払いの家事労働とか、再生産労働を担ってる女性の話とか、本当に底辺の非正規のお仕事してる人の話とか、性暴力の被害に遭った女性の話とかそういうのが多くて、それこそ本当に忘れられてきた、切り捨てられてきた、光を当てられてこなかった人たちの物語ですよね。浅く見ると結構両極端にあるような、そういう本を同時に翻訳されていて。だから小山内さんは、女性の分断というか、能力主義みたいなことをどんなふうに考えてるのか知りたいなって。

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小山内 いいとこついてきますね(笑)  私はわりと訳してるとき、声が聞こえるっていうか、喋ってる感じが聞こえてくるんですけど、キム・ジナさんは「セックス・アンド・ザ・シティ」のキャリーの感じなんですよ。ここまで能力が高くて、あの地位を確立した女性は少ないけれど、あのキラキラに乗っかった世代っていうのはあって。能力的な部分の分断もあれば世代間の分断もやっぱりありますよね。
堅田 キム・ジナさんが見せてくれる景色を見たことのある女性がまず圧倒的に少ないから、その景色をみた人がそこで感じた困難とかその戦いを残してくれるってことの意味は私もあると思います。その一方で、そこからはるか遠くにいたりとか、そもそも本当にいないことにされてきた女性たちもたしかにいるので、どう折り合いを…折り合いなんて別につけなくてもいいかもしれないんだけど…。
小山内 訳者は自分で書いているわけではないので、むしろいろんな分断をまたぐような書籍を、ある以上はとにかく紹介をしたいですね。全く相容れないようなこと…DaiGoとか?韓国でもしそういう人がいて、そういうのを訳す依頼が来たらやらないんですけど。
堅田 世代的な分断もあるわけですね。『82年生まれ、キム・ジヨン』とかもそうだけど、家族の中のお母さんから娘みたいな、一つの家族の中での複数世代を扱った物語が日本語で読めるものでもありますよね。
小山内 ちょうどチョ・ナムジュさんの出たばかりの短編集を訳すことになってるんですけど、もろ3世代で全員フェミニストだと思って来てるんだけど、何か分断があるっていう。
堅田 おもしろそう!
小山内 短編集なんですけど、コロナ禍で小学生が恋愛するんですけど、経済格差があってマスクをプレゼントにするとか、旦那が死んだ後で姑とシスターフッドができて、女同士で暮らす方が全然良かったっていうのを姑と気づいたとか、世代の分断とか能力の差異による分断とかを踏まえつつ、小説家は物語を紡がなきゃいけないので、そこはステイトメントとはやっぱり違いますね。

条件付きの権利なんて権利って呼べない。いいからベーシックインカムを保障しろと

堅田 小山内さんは今横浜の支援の現場で仕事をされているんですよね。そこで感じてるいろんな困難みたいなことは、結局社会の中で、いろいろな不利益みたいなものを不相応に押し付けられてる側が、競争させられてるというか。
小山内 そうなんです、そうなんです。
堅田 支援の現場も女性が相対的に多いと思うんですけど、そこでも女が調整役を期待されてというかやらざるを得なくて。でもその間、力を持ってるおじさんたちはのほほんとしてたりするわけじゃないですか。
小山内 うん。言う相手を間違えると無駄に消耗させられるなっていう感じはする。社会ってやっぱりハニカム構造でいかないといけないんで、難しいところではありますよね。対立が深まっているとも言えるし。
堅田 いや難しいですね、答えが出ない。
小山内 でもベーシックインカムが一番の答えだと思うんですけどね。
堅田 え、ほんと?うれしいです。
小山内 絶対そうだと思いますよ、全部切れるのってあれしかないと思いますよ。
堅田 なるほど。でも私自身は、ベーシックインカムは別に何でも解決する万能薬っていうふうには思ってなくて。むしろ本当にあって当たり前の基本的なもの、それすらないのはおかしいみたいな感覚なんです。なんで給付を受け取るのにいちいち母役割とか妻役割を期待されたり、生活保護とかミーンズテストみたいな屈辱的な過程を経たりしなきゃいけないのって。なんかそれこそ「バラ」と引換えじゃないと「パン」を与えられないみたいな仕組みが本当におかしいよなって思っていて。そんな条件付きの権利なんて権利って呼べないし、いいからベーシックインカムを保障しろと。でもなんかね、ベーシックインカムっていうと怒られることも多いです。
小山内 不思議ですよね。でも、そういう資格審査が好きな社会になっちゃったんだなって感じですよね。
堅田 援助に値する人か値しない人かっていうのをいろんな基準でジャッジされる感じですよね。DaiGoも、名前出すのも嫌だけど、最初の謝罪で、貧しい人の中にも頑張ってる人もいるってわかったみたいな言い方をしてたそうで。頑張ってるか頑張ってないかを外形的な振る舞いとかで判断して、それを援助に値する/しないに結びつける。そういう思想がはびこってて…。私なんて絶対援助に値しない側に割り振られるから、もうそれは嫌だーって。
小山内 あのDaiGoのときに、生きてるだけで生活保護を受ける権利があるんだっていう書き込みを目にして、それって正確にはベーシックインカムがそうであって、生活保護って別に生きてたら絶対もらえるわけじゃなくて、良いか悪いかは別に制度上は資格審査があるので、「生きてるだけで生活保護をもらえるのになんでDaiGoは……」って、うーんそれ間違ってるけどって。むしろそういうのってベーシックインカムって書けやって思っちゃうんですけど。
堅田 たしかに!それがまさに忖度っていうか禁欲主義っていうか…、そこでベーシックインカムって言えばいいのに、今あるものの範囲で、枠の中で考えようとしちゃう。しかも小山内さんがおっしゃるように生活保護って条件付きだから。それも厳しい条件。そのうえ捕捉率も2割と低い。そういうのを全部ないことにして。すごく控えめですよね、要求が。

おかしいなと思ってることに言葉を与えてくれたのが、こういう人なんだって

小山内 この本は、やっぱりそうなんだと思うことばっかりで。あと、全体の構成が好きで。完成されてる、なんて私が言ったらおこがましいんですけど。なんか1部を読むと、オリンピックもあったり時間的に近い、今私達が思ってることビシビシ言葉に置き換えていただいて、気持ちいいんですね。ただ、この勢いでバーっていくんだろうかって思って。1人の人が生きて見る光景から考えたいのに、何かロジックや主張でいくのかな、と思ったときに、2部に行って「おおー」ってなって(笑)いきなり紙食べるし。アコ○ででバイト?みたいな。それでなんとなく皮膚感覚を取り戻すというか、そこが一番嬉しかった。自分たちがおかしいなと思ってることに言葉を与えてくれたのが、こういう人なんだってわかって、もう1回反芻できる本があんまり最近なかったので。
堅田 今言ってくださったようなこと、似たような感想を私別の方からもいただいて。1部を読んだときにもう言葉が鋭くて、しんどいから時間をかけてゆっくり読もうかなと思ったけど、2部に入って何か救われたみたいなことをおっしゃってて。理論として正しいことを言われたとしても、いきなりボーンって出されると結構ウッてなっちゃうけど、その続きを読んで、いろんな葛藤とかがあってのこれなんだって。
小山内 パンとバラ、そうなんですよね本当に。なんで食うことをおろそかにして、生きがいとか搾取してっていう、みんなが思ってたことを言葉にしていただけたので、よかったです。
堅田 小山内さんにそう言ってもらってすごく嬉しいです、ありがとうございます。

(2021年8月23日収録)

プロフィール
小山内園子(おさない・そのこ)
1969年生まれ。社会福祉士。延世大学などで韓国語を学ぶ。訳書にイ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』、『失われた賃金を求めて』(すんみと共訳)、カン・ファギル『別の人』など。




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