僕たちは何故自分達でお米をつくるのか? 里山奮戦記


2024年9月の稲刈り

僕たちは、6年前に京都の京北町という里山に暮らし始め、娘家族と一緒にお米づくりを始めた。田圃の広さは2.4反。都会に住んでいた頃は、お米は街のお店で購入する事が当たり前だった。娘家族がこの里山に移り住んだ時に、地元の農家組合から農地を含む古民家を購入するには、3反規模の農業を最低3年継続する事がルール(今ではもう少し緩和されているが) だと言われ無理やりやらされ始めた米づくりだった。それから6年、山あり谷あり、この先も続けてお米をつくり続けるのか?を決心するにあたり、今改めて、自分達は何故お米を作るのか?その意味を考えてみる事にした。

考えてみたいと思っていたキッカケは、今年の米づくりの作量がこれまでで最低で経済的にもインパクトが大きく、つくるよりも従来のように一消費者として購入した方がいいのではないか?とも言える今年の結果をどう見るのか?それを振り返る事は、僕たちの米づくりの本質がそこに見えてくるように思えたからだ。6年間、お米をつくってみて分かったこと。自分達で作る。それを自分達が食べる。そもそも新米は美味しい。見た目の艶、香り、噛み心地、味覚、それだけではなく1年間の労働が映像のように蘇る。地元の人達はお米の食べどきをよく知っていて、脱穀したてよりも1〜2週間寝かせた方が甘味も出てきて美味しくなるよという。それは確かに美味しい。つくる生産者だけが味わえるその瞬間もある。こうした収穫の喜びに浸りお酒で祝う。僕達がお米をつくり続ける理由はこのシンプルな喜びを毎年繰り返す事にある。

井戸ファーム
籾の乾燥、脱穀、精米、収穫時期はフル稼働。

僕達の米づくりを支えてくれる井戸ファーム。そもそも3反規模の農業を始めろと言っても都会の素人に何ができるのか?それを支えてくれたのが、井戸ファームの人達だった。ここでは共同で農業機械を使い、共同で種籾から苗代づくりをしている。農業機械の扱いについては、我々のような初心者にベテランがつきっきりで使い方の指導をしてもらえた。もちろん共同で使う高級な機械を初心者に壊されては困るという本音もある。収穫した籾の乾燥から脱穀、精米までこのファームに属していると農業の一歩が踏み出せる。この地域のサポート無しにはとてもじゃないが、お米づくりを始めることはできなかった。

米づくりに関わり始めて、地域の方々の顔が見えるようになって来たのも我々のような Iターンの住民にとって早く地域に馴染む手段でもある。地域にとって米づくりは地域のコミュニティを円滑にする潤滑油でもある。景観については、地域の田圃の畔の草刈りは徹底している。それはいいお米を作る為でもあるが、米づくりで美しい里山の景色がうみ出されている。毎年4月の末には住民みんなで水路を掃除する。5月から始まる田植えに備えて水をそれぞれの田圃に回せるように水の道を整備するためだ。
秋には豊作を祝う祭りが各地域で催される。それら全てが里山の暮らしに繋がっている。

何故、自分達はお米をつくり続けたいのか?その答えは自分達の為であり、里山の暮らしになくてはならない行為だから、、、というのが答えだろう。僕達が米づくりを通して地域経済を支えているものではなく、僕達にとってお米づくりは究極の個人的な行為と言える。だったら、農薬の残留しない安全なお米を作りたいと思う。

2024年度特別栽培米コシヒカリ(玄米)
今年は基準から更に農薬散布を控えた。

お米づくりを始めた当初から農林水産省が策定した「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」に沿って、特別栽培米コシヒカリを井戸ファームの指導を頂きながら作り始めた。このガイドラインは、無農薬や農薬の使用を節減して栽培された農産物への消費者の関心の高まりにともない、施行されたもの。とは言え特別栽培米でも最低限の農薬の散布が必要になる。

今年、僕たちはその農薬散布を更に少なくしてみた。それが僕たちだからできる挑戦でもある。その挑戦は雑草との戦い、カメムシとの戦い、近隣の農家さんの目線との戦いでもある。例えば減農薬にすると田圃の稲の中にヒエがはびこり始め、その種が周囲の田圃に飛散する。それを気にして鋭い目線が向けられることもある。そうした目線を受けながらも少しでも自分達が納得のいくお米を作りたいと続けてきた。

僕たちのお米の経済的価値を考えるにあたり、はっきりしているのは、販売を目的に作っているものではなく自分達が食べる為に作っているものである事。年によってバラツキはあるが自分達が食べるよりも多く収穫できた分は知人にお裾分けしてその美味しさを分かち合いたい。それでもってプラマイゼロ、トントンという考え方であれば、経費をどんな考え方で整理するのがいいのかを自分なりに問いかけた。

年間のお米づくりにかかる経費は、作量に応じて変動もあるが概ね25万円。その金額を、僕達2家族で消費する年間のお米(約200キロ)で単純に割り算すると1キロ辺り1250円相当となる。もちろんここには僕達の1年間を通した労働という人件費は含まない。何が言いたいかと言うと、個人的な行為と位置付けた僕たちの米づくりは経済的にとても贅沢な行為だと認識した方が良さそうだという事である。

この基本的な認識が重要だと思うのは、僕達は物事の行為を常にお金という経済的価値に置き換えて判断しがちで、尺度を捉え違えると心の中の財布に影響を及ぼすからである。心の財布とは何か?それはひとの心に及ぼす感情の財布である。例えば海外旅行がしたい場合、それに多額の費用がかかっても自分が選択した行為の場合は苦にならない。だから僕達にとってお米をつくる行為は自分達が選択した行為だと改めて認識することに意味があると思った。とは言え、旅行も米づくりも経済的に賢く旅がしたい、お米だって賢く作りたいのは誰もが同じである。

そこで今年のお米づくりを基点に、自身の経済的評価として心の財布の考え方を描いてみた。今年の経費は例年と同じく250000円程度。今年のお米の出来高は330キロの予測。この作量は例年の半分。農家でいうと半作と言うらしく農業が成り立たなくなるレベルらしい。この半作をもたらした原因は自分達の米づくりにあって、農薬を極限まで散布しなかった事に起因している。この半作は僕達の米づくりの失敗ではなく学びと捉えたい。

更には、自分達も一顧客、つまり購入者と位置付けて考えてみた。この考え方にしたいと思った背景は自分達は生産者でもあり、それを頂く顧客でもあるという両者に立ってお米づくりをの経済性を俯瞰したいと思ったからだ。

僕たちのお米づくりを持続可能にするには、一体どのくらいの経済的価値を想定すべきだろうか?
仮に1キロあたり800円とする。自分達の消費分の200キロに対しては自分達の労働費を割り引いて1キロあたり半額の400円で購入するとする。今年の余剰米130キロは知人に1キロ800円でお裾分けするとする。すると自分達の懐から80000円の売り上げとお裾分け分から104000円の売り上げ、合わせて184000円の売り上げができる。経費250000円なので、それから売り上げを引いて66000円の赤字となる。この赤字はそもそも贅沢な行為にかかる支出と思えば、自分達を納得させる事が容易となる。

もちろん来年はもう少し研究して作量を増やす事に挑戦し続ける。地元の有識者によると、僕たちの2.4反程度の作付け面積に減農薬でお米を栽培する場合の期待収量は最大でも500キロ前後らしい。この考え方でお米づくりを続けていけるとすると、改めてお裾分けできる知人の存在は大切である。知人の特別栽培米に対する理解と共感があって始めて僕達のお米づくりが持続可能となり経済的にも成り立つと言える。

地元の人達の多くは収量を増やし且つ安定させるために農薬を使い、JAに安価で卸しているようだ。安定した流通手段ではあるが、僕から見てそれは決して幸せな農業には見えない。手をかけて作る以上収量には限界があっても自分達や知人が美味しく、しかも玄米で食べても残留農薬のない安全なお米をつくりたい訳なので、到底現代社会の主流となる流通にはのせることはできない。

6年間続けてきた僕達のお米作りは、将来に向け持続可能性を見つめ、この考え方で一旦リセットして始めようと考えた。もちろん僕たちの挑戦はいつまでも赤字を容認するのではなく黒字化を描きながら続けていく事。僕達にとってその黒字化はとても重要で将来に向けて新たな投資ができることに繋がるからである。

今、ここで考えた事、それによってこれまで6年間続けてきた行為が変わるものではない。今年の半作と向き合い、心の財布も含め、僕達のお米づくりのあり方を整理し自己認識を深めたにすぎない。
世間には様々な農業を志す方々がいると思う。それぞれの考え方は異なると思うが、お米づくりは単純に経済性と言う軸だけでは割り切れない日本の里山の暮らしと密着した行為でもあり、もっと多くの人達がお米づくりに関わって欲しい。もしくは地域のお米づくりを支える関係人口(お裾分け)であって欲しいと思い、今、僕自身が考えた事をnoteというツールを通じて発信してみることにした。

2024年とれとれの新米を食す。

<参考>

農林水産省「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」
https://www.maff.go.jp/j/jas/jas_kikaku/attach/pdf/tokusai_a-5.pdf
農林水産省「特別栽培農産物に係る表示ガイドラインQ&A」
https://www.maff.go.jp/j/jas/jas_kikaku/pdf/tokusai_qa.pdf


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