第4話 『古都を見守る二つの塔』
① 立ちはだかる言葉の壁
おはようボローニャ。
窓から流れ込む優しい冬の陽射しと小鳥のさえずりで目が覚めました。
この世にこれ以上の心地良い目覚めがあるでしょうか。
外は昨夜の鬼吹雪が嘘だったかのように穏やかなお天気です。
いつまでも気持ち良さそうに爆睡している妻を起こし、ベッドを整えて服を着替えました。
昨日までは、ここボローニャのガブリエッラ邸を目指すべく、ひたすら移動することだけが活動の主軸でしたが、今日からが本当の意味でのイタリア移住生活の幕開けなのです。
これからどんな毎日が待っているのかワクドキです。
とはいえ、部屋の外へ一歩出るだけでも相当な勇気が必要です。
ドアの向こう側の物音に聞き耳を立て、洗面所やキッチンに他の人の気配がないか慎重にさぐりを入れます。
もし、家のどこかでガブリエッラやトルコ人の青年たちとバッタリ顔を合わせてしまったら…と考えると不安で仕方がないのです。
もちろん、同じ家で同居しているわけですから顔を合わせて当然なのですが、こちらからどんな声をかけてよいのかも分かりませんし、相手から何か話しかけられても言葉が理解できず困惑してしまうことが確実だからです。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいきません。
僕は意を決して頷くとゆっくり部屋のドアノブをひねりました。
ひとまず玄関ホールは無事に通過。
洗面所もセーフ!!
続いてキッチンへ向かうも他の住人の姿は見えず。
よし!
今のうちにとっとと朝食を済ませて部屋へ戻ろうと手早くインスタントコーヒーを作るためのお湯を沸かしていた、その刹那。
音もなく突然フラリとガブリエッラが現れたのです!
!!!!!!!!!!!!!
(緊急事態発生!総員、直ちに第一種戦闘配置につけ!)
表面上では平静を装いつつも、頭の中では激しくエマージェンシーコールが鳴り響き、その場の空気が緊張で張り詰めます。
そして万一、敵と出くわした際の緊急対策用に準備していた僕が持っている唯一の武器を引きつった笑顔と共に小さな声で繰り出します。
『…ボ、ボ、ボンジョールノ。』
するとガブリエッラは老眼鏡の奥に鋭い眼光を放ちながら、こちらへ近寄ってきて迫力のある声で一言。
『トゥットゥ ベーネ?』
!!!!!!!!!!!!!
この問いかけっぽいイントネーションを含んだ謎の言葉に対し、僕は何と応じれば良いのか分からず激しく動揺しました。額には冷や汗が滲み、鍋の柄をにぎる手が小刻みに震えます。
苦しまぎれに妻のほうを見ると、この修羅場に巻き込まれないよう離れた食卓に座って完全に気配を消して無と化し、絶体絶命の窮地に立たされている僕を第三者目線で眺めてやがります。
(おい…テメェ、見てないで助けに来いよ~!)
しかし、僕の悲痛な心の叫びは彼女には届きません。…いや、正確には届いているのですが届いていないフリで生贄にされているのです。
何一つ返事ができないまま狼狽していると、しばらくしてガブリエッラは小さく肩をすくめてキッチンから出て行ってしまいました。
後で調べてみたところ『トゥットゥ ベーネ?』とは『全て順調かい?』といった相手の調子を気づかう質問だったようです。
せっかく向こうから声をかけてくれたのに結果として無視したような形になってしまったのです。目の前に立ちはだかる言葉の壁に阻まれ早速、己の無力さに打ちのめされてしまったボローニャ最初の朝でした。
② 日曜デッドタウン
インスタントコーヒーとバターを塗って砂糖をかけた小さなラスクだけという素朴な朝食を済ませた後、気を取りなおして今日は明日から通うことになっている語学校の場所を下見しておくことにしました。
登校初日から道に迷って遅刻なんてしている場合じゃないですからね。
一応、ガブリエッラに声をかけてから出かけたほうが良いと思い、彼女の部屋をノックし、電子辞書で調べた『私は散歩へ行きます』というイタリア語を書いたメモを見せると彼女は5つのキーが付いた鍵束を手渡してくれました。
ジェスチャーを交えた説明によると一つは自分たちの部屋のキー、一つは玄関のキー、一つはマンションエントランスのキー、一つはオートロックの門扉を開けるためのキーというところまでは分かりましたが、あと一つはいまいち用途不明な謎のキーでした。
ともかく、これでいちいち帰宅の度にインターホンを鳴らしてオートロックの門扉を開けてもらったり、外へ出るたびにガブリエッラに報告しておく必要は無くなったわけで気軽に外出しやすくなりました。
屋外はあちこちに雪が残っていて足場は良くないものの、昨日の悲惨な状況に比べるとはるかにマシです。
語学校からメールで送られてきていたもはやお約束ともいえる『抽象的過ぎる地図』を片手に歩くこと約30分。確実に目的地周辺に着いているはずなのに肝心の語学校の校舎がどこにも見当たりません。
さらに2時間、周辺地域をウロウロと探し歩き、地図の印にほど近い場所に門扉の閉じられている建物を発見。今日が日曜日なので閉まっているものの、おそらく平日にはこの門扉が開放されており、この奥に語学校があるのだろうと勝手に解釈しました。
確信はないにせよ、ひとまず学校の場所についてはおおよその見当が付いたので散歩がてら日曜でも開いているスーパーを見つけようと街中をぶらぶら歩いてみることにしました。
ですが結局、開いている店は一軒も見つからず、イタリアの休日の不便さを痛感しました。
ほぼ全ての店のシャッターがおりていているため、チェントロと呼ばれる中心部でも人通りは少なく、街はさながらデッドタウンのような様相です。
昨日のうちに死にものぐるいで食料を入手しておいて正解でした。
③ 古都を見守る二つの塔
街の中心部を散策中、ひときわ目を引いたのが巨大な2つの塔でした。
日本から持参したガイドブック『地球の歩き方(イタリア編)』によると、この二つの塔は『アシネッリの塔』と『ガリセンダの塔』と呼ばれているボローニャのシンボル的存在とのことです。
特に高い方のアシネッリの塔は地上100メートル近くあるので街を歩いていると結構遠くからでも良く見えます。大阪の通天閣と同じくらいの大きさですね。迷子防止に役立ちそうで助かります。
少し傾いているので有名なピサのあれと同じく、これも斜塔ということになります。かなり不安定そうなので地震などでいつか倒れてしまうんじゃないかと心配になってしまいます。もっとも相手からすれば『余計なお世話じゃい!何年ここで塔やっとる思とんねん!』といった感じなんでしょうけど。
それにしても基礎部分もこんなに細くて大丈夫なのかなぁ…?今にもボコッともげてしまいそうです。
他のイタリアの有名な建造物に比べると表面の装飾も地味でフライドポテトみたいなシンプルな形状なので、特に見た目が美しい塔というわけではありません。
しかし、ローマ時代以前の古代から交通の要衝として栄えていたボローニャの栄光と街の発展をずっと見守り続けてきた二つの古い斜塔からは長い歴史の風格を感じさせられ、重厚な存在感とカリスマ的オーラは確かに放たれていました。
とりあえず、塔の下に立っていた偉そうなおっさんの石像に『こんちわ~。はるばる日本の大阪から来ましてん。これからお世話になりますんで今後ともひとつ、ごひいきに。…誰か知らんけど!』と敬意の念を込めて関西風にご挨拶しておきました。
何のリアクションもしてくれないおっさんの代わりに妻が『知らんのかいっ!』と隣から正しくつっこんでくれました。
《つづく》
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