「なんか好き」とか「なんか嫌」とか
侮れないというか、油断ならない。
「なんか好き」とか、「なんか嫌」というときの「なんか」には、見過ごせないものがある。
まだ言葉になる前に、心なのか、頭なのか、体なのか、より本質的な部分でYES!(もしくはNO!)というシグナルが発せられている。
言葉というのは、何かと何かを区切らせる。
そうすることで認識させる。
それは言葉のメリットで、重要な力だけど、同時にどうしても取りこぼしてしまうものがある。
だから、言葉になる前の、その「なんか」は、その人にとって、きっととても意味のあるものだ。
できれば、「なんか」のままで終わらせずに、もう少し踏み込んでみたい。
きちんと説明することが難しくても、せめて、その「なんか」が心のどの辺からきているのかとか、こういう気分に似ている、とか。そのくらいは。
特に「なんか嫌」というとき、そこには、人間の本質に迫るものがありそうな気がする。
自然と感じる禁忌とか、文化や社会、もっと根本的なものに根付くなにか…とか。
当然「なんか好き」も無視できない。
だいたい、「ここのこれが好き」なんて言ってるうちは、たぶん、その程度の好きなのだ。
とにかく、よくわからないけど、グッときて、たまらん。
そういう、言葉には到底なりそうもないものも、言葉にできないという敗北感ごと、無視せず、そのまま大事に味わったっていいともおもう。
理屈じゃないのだ。
ほら、ぬいぐるみの挂甲の武人と遮光器土偶とか、最高じゃないか!
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