「こういう生き方もあるよ」と過去の自分に伝えられる生き方をすることについて
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タイトルにもある通りなのだけれど、どうにも生きていくことがキツかった過去の自分に
「こういう生き方もあるよ、選べるよ」
ということを伝えられるような生き方をする、これがこれからの自分の目標のひとつである。
まあ、いまだにそれを模索しているというのか、あーでもない、こーでもないとやってはいるのだけれど、今の自分がはっきりとわかっている、信じているのは「生きる道はひとつだけじゃない」ということ「自分にあった道は必ずある」ということである。
それは、なんというか確証があるというわけではないけれど、自分のこれまでの経験、あるいは感覚、そしてこれまで新たに出会ってきた人たちの生き方を知ることで、強く思ったことでもある。
正直、ずっとこの一般社会と言えばいいのか、いわゆる多くの人たちがつくっている「普通」の世界を生きていくのがキツかった。
それは僕が、ただ弱いだけ、逃げているだけなのかもしれないけれど、なんというか、ある人たちにとっては別になんともない、むしろ生きやすい世界でも、僕にとってはなんとも大変な世界、それがこの社会のように感じている。
とはいえ、そんな世界、社会でも39年は生き残ることができているわけで、それは家族だったり、リアルあるいはオンラインでも出会った、自分と感じること、思うことが近い人たち、そしてもちろん自分という存在そのものにも助けられているわけで、それには感謝しかないし、やっぱり生かされているのだなあとつくづく思う。
ただ、もしかしたら贅沢なのかもしれないけれど、それでも生きていくことが大変だなあと感じることは、多くある。
いわゆる「みんな」ができることができない、「みんな」が興味を持てることに興味を持てない、「みんな」に合わせるのがキツい、「みんな」というグループに入っていけない、「みんな」がなんとも思わないことを気にして疲れる、などなどまあ小さいことかもしれないけれど、これが地味にきいてくるわけである。
それは、例えば学校ではクラスだったり、会社では職場だったり、人によって違うだろうけれど、割合はわからないけれど、その全体の割合の多くを占める人たちができることを、自分ができないとなると、なんというか自分がどうしようもない人間じゃないかと感じてしまう。
僕の場合はなんというか、無意識にその時その時の「みんな」に合わせようとしていたというのか、大多数の人たちに合わせないといけないと思い込んでいたし、それが無難だと考えて生きていた。
けれど、そうやって無理をして自分をごまかし続けた結果、心がボッキリと折れてしまったわけで、そしてそれは「みんなと同じようにできないあなたの問題」ということに社会から片づけられたように感じた。
こうなったらもうしょうがない、自分は大多数の人たちの生き方に向いていなかったと認めて、受け入れて、前に進んでいくしかない。
そう気持ちを決めると、それだけでも心がちょっと軽くなった。
まあ、決してラクな道ではないかもしれない。
けれど、それでも生きることそのものに希望が持てなかった、その時その時の過去の自分たちが「ああ、こういうふうにも生きていけるんだ」とちょっとでも気持ちがほっとできるような、そんな生き方を今の自分、これからの自分がつくっていけばいいのだと思うし、それをこれからやっていきたい。