「あせらない」ことについて
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スマホやパソコンに触る時間を少なくして、かわりに紙の本を読んだり、ぼんやりと考え事したり、外に出てなんとなく過ごすうちに、前に比べてあんまりせかせかとしなくなったように感じる。
まず自分に入ってくる、情報の量とスピードが変わった。
スマホとかパソコンを眺めていると、ものすごい量の情報が、ものすごいスピードで目の前に流れてくる。
そしてそういうのを見ていると、自分のやりたいことをやれている人とか、好きなことで楽しく生きている人たちの様子がふと見えたりする。
そうすると、やっても意味がないと知っているし、やめたつもりでいたはずの「人と比べること」ということを、ついついまた無意識にやってしまう。
そして、なんというか自分は何にもやれていない、できていないように感じて(まあ実際にそうなのかもしれないが)なんだか無性にあせってしまう時がある。
まわりの人たちはそれぞれの理想に向けてどんどん歩みを進めているのに、自分はずっと同じ場所をぐるぐる回っているような、もしくは進んでいるつもりで実は、同じところで足踏みしているようなそんな気分になる。
とはいえ、これまでの人生で数えきれないくらいそういうあせりを感じて生きてきたし、あせったところで何にもならないこともわかったし、そもそも人と比べてもしょうがないこともこの年齢になってようやくわかってきた。
なんというか自分の進むルートと、まわりの人たちが進んでいるルートはまず同じではないし、自分は何かの競争に参加しているわけでもないし、参加する気もない。
自分が進むルートの先には誰もいない。後にも先にも自分だけである。
なので追いつかなきゃとか、追い越されたらどうしようとか考えるのが、そもそも意味がないんだと思う。あせる必要は全くない。
とはいえ、スマホとかパソコンでそういうたくさんの情報に触れたりして、気持ちが落ち着かなくなったり、SNSなんかで何だか充実していて楽しそうな誰かの人生を見てしまうと、気持ちも弱ってしまう。
なので、物理的にそういうものたちから自分を離すことにしたわけだけれど、みんなにとってどうかはわからないけれど、自分としてはやっぱりやってよかったと思う。
これまでは、人の人生と自分の人生を、意味もなく比べて落ち込んでいた時間が「ただただ自分とゆっくり向き合う時間」に変わっているように感じるし心も穏やかでいられる。
隣の芝生は青く見えるじゃないけれど、どうしても誰かの人生、特に自分の理想に近い人生を過ごしている人の人生というのは、とてもキラキラして見えるし、そんな誰かの人生と、生まれも育ちも環境も全く違う自分の人生をなぜか比べて落ち込んでしまう。
とはいえ「人は人、自分は自分」とある種の開き直りでもないけれど、そのくらいの気持ちでいた方が、気持ちもラクに自分のペースで自分の人生を生きていけるように感じる。
僕は弱い人間だと思う。
すぐまわりに左右されてしまうし、心も安定しない。
けれど、そういう弱い自分を理解することで、じゃあどうやって生きていこうかと考えたり、対応することができるようにちょっとはなったし、あまりあせらなくてもいいんだと考えられるようになった。
自分の理想、自分が進みたい道が見えたなら、まわりの人をちらほら見ることなく、まっすぐ前を見て、あせらないでゆっくりでもいいからちょっとずつ進んでいけばいい。
今はそう思えるし、自分のペースで自分の人生をあせらずに生きていきたい。