すべてはギフトであることについて
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僕は今39なのだけれど、まあそれなりにいろんなことを経験してきたと思う。
楽しかったり嬉しかったりしたこともたくさんあったし、悲しかったりキツかったりしたこと(こっちの方が多いかもしれないけれど)も、まあたくさんあった。
楽しいとか嬉しいことはいいとして、キツいこともそれなりに経験してきて、その時はもちろんキツいし、「なんで自分だけ」とか「なんでこうなっちゃうんだ」とかいろんな感情がぐちゃぐちゃになることもあった。
そして、そういうキツかったことは自分の人生においては、ずっとマイナスであり、ネガティブなことにしか思えなかった。
だからそういうキツかったことを思い出すと、なんともいえない気持ちになるというか「ふう…」みたいにため息をつきたくなるし、そういうことは心のタンス(そういうものがあるのかはわからないけれど)の奥にしまいこんで、できるだけ見ないようにしていた。
それでもふとした拍子にフラッシュバックというのか、そういうキツかったり嫌だったことを思い出したりもして、そうするとやっぱりどうしてもネガティブな気持ちになってしまうし、そうやってネガティブな気持ちになってしまうことにもなんだかモヤモヤしてしまっていた。
とはいえ、今になって完全にではないかもしれないけれど、そういう自分としてはマイナスだったりネガティブに思っていたことも、自分の人生には必要なことだったんじゃないかと思えるようになってきた。
それはきっと今の自分がこれまでの人生でも心が落ち着いているし、穏やかでいるし(イラッとすることはゼロではないけれど)、自由だし、好きなことがわかるし、好きなことができているし、自分で自分のことを嫌だと思わなくなったからである。
そして今の自分になるためには、いいこともよくないことも全て、必要だったんだなという気持ちになった。
それはなんというのだろう、僕としては「ギフト」という言葉がしっくりくるというのか、誰からというとわからないけれど、贈り物みたいなものなんじゃないかという感じがする。
確かにキツいこともいろいろあったけれど、それがなかったらきっと僕は「今の僕」ではなくて「別の今の僕」になっていただろうし、こうして楽しく文章を書いたり、心も落ち着いて気持ちもラクになっていたのかはわからない。
そしてこれまでの39年で、僕は今の僕になるために、その都度ギフトを受け取ってきたのだろうし、スピリチュアルなことはわからないけれど、それを受け取ることにしたのも、僕自身だったのかもしれない。
そもそも物事に対して「よい」とか「よくない」とか「プラス」とか「マイナス」あるいは「ポジティブ」とか「ネガティブ」というジャッジをしているのは自分であって、物事そのものにはなんの色もついていない、ただの事実なんだと思う。
だからそれに対して「これはよい」とか「これはよくない」とレッテルを貼るよりも、淡々と受け入れていければいいんじゃないか、まあそれが難しいことなんだろうけれど、そういう生き方がこの先ちょっとでもできればいいなとは感じている。
これからの自分が、どういうギフトを受け取るのかはわからない。
けれど、だからこそ人生は面白いのだろうし、そのギフトは感謝の気持ちで受け取っていきたいと思う。