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クリティカルな思考とは、「境界的」思考のことである

どうも。ぺりかんです。はじめまして。


馴染み深い。けれどよくわからない「クリティカル」という言葉


今日は、「クリティカル」という言葉をすこし掘り下げてみたい。
クリティカルって、実際どういう意味なの?日本語でいうと何?
…考えてみると、意外と、しっくりくる答えが浮かばない。

"クリティカル・シンキング(critical thinking)"、"クリティカルな思考"といった言葉は、書店を少し歩けばすぐに目に入ってくる。ビジネス、経営、資産運用…エトセトラ。クリティカルな思考は大事なんだぞ!ということは伝わる。

子供のころに親しんだ対戦ゲームは一定確率で「クリティカル・ヒット」を出すことができた。クリティカル・ヒットすると、相手に与えるダメージが倍になったりするからラッキーだ (「しかし、うまくきまらなかった!」なんてこともあるけれど)。

大学では先生がたびたび「クリティカルに考えなさい」と言っていた。誰かの発言に「それはクリティカルな意見だね」と褒めていたこともあった。でも当時は、その言葉が、実際のところ何を褒めているのか僕にはわからなかった。クリティカルってなに?どういう意見がクリティカルなの?

なんとなくニュアンスはわかるけど、説明はしにくい。なのに社会的に要求されている。自分がクリティカルに考えられているのかどうかを、どう判断したらいいのでしょう。
馴染み深いがよくわからない「クリティカルな思考」。

鋭さ?過激さ?それとも?

実は最近、この厄介な「クリティカルさん」に対する適切な、これ以上ないと思われる日本語訳をみつけた。僕と同じようにクリティカルさんに翻弄されてきた読者のみなさんに、今日はそれを紹介したい。これで、クリティカルさんもタジタジなこと間違いなしだ。

そのまえに、なんとなくでいいから、クリティカルをもう一度イメージしてみよう。僕の直感では、たとえば「クリティカルな意見」は、「鋭い意見」のことだと考える人が多いのではないかと思う。聞き手がみんな「ハッ」としてしまうような新しい角度からの意見や、物事の矛盾を突いた考察がこれに当てはまる。
そういう発言ができれば、「するどいね」「頭が良いね」「面白い着眼点だね」なんて褒められる。クリティカルな思考というのは、ざっくり言えば、そういう感じ?


クリティカル・シンキング = 批判的思考 ?


まだある。「当たり前を疑うこと」「違和感をもつこと」「批判的想像力」…クリティカル・シンキングはこれらの言葉とも深く結びついて使用されている。ちなみに読者の皆さん、心のどこかでこう思っていませんか。

当たり前を疑えとか、批判的思考が大事だということはよく聞くし、知っている。けど、具体的に何をどう考えれば、それは批判的になるの?

「クリティカル・シンキングとは、すなわち批判的思考である」…
そんなことを声高に言われても、困る。なぜなら批判的思考というものが、よくわからないからだ。

これから説明しようとしている「クリティカル」の意味は、この「批判的」という言葉の意味と、きわめて重なっている。クリティカル・シンキングとは何かを突き詰めていくと、「批判的思考」についても理念的に理解していくことができると思う。

クリティカルの意味

critical 
辞書的な意味を調べてみると、以下のようなものがある。
①批判的な/評論の
②厳しく批判する/酷評する
③危機の/きわどい/危うい/峠
④重大な
⑤臨界の

たいてい、辞書でクリティカルの意味を調べて該当するのは、①か②、あるいは④だろう。だが今日は、太字で示した③と⑤の意味群に注目してみてほしい。

まずは③。ここでのクリティカルは、病院や、命の危機にある場合に用いられているようだ。生死を分かつような「きわどい」症状にあるとき、もしかしたら"He is critical" (彼はクリティカルな状態だ)と言ったりするのかもしれない。

次は④だ。「臨界」。
これは、物理学や数学的な含意があるが、単純に言えば、「境目」や「境界」と同じ意味だ。水は、1.00気圧のとき、100.0℃で沸騰する。加熱された水の温度が99℃だったら、そこはもう「沸騰しかけ」の臨界状態だと言っていい。もう少しで液体が気体に変化する、ギリギリのライン。変化の境目。境界線。

こう並べてみると、③と⑤の意味は似ている。
どちらも、「境界」に限りなく近づくこと、あるいは境界そのものを示している。とくに③で用いられるクリティカルは、患者や病人、けが人が生死の境界をさまよっていることをほのめかす。すぐに処置を施さなければ、生死の境界線を越えてしまう。危ない状態だ。

クリティカルという言葉がもつ、この「境界」のニュアンス。僕は、それが「クリティカル・シンキング」の本質的な意味を説明するものなのではないかと考えている。境界に関わること。境界に限りなく接近すること。あるいは、境界そのものについて思考を巡らせること。それがクリティカルな思考なのではないか。

ナイフが身体に対して「クリティカル・ヒット」(「こうかはばつぐんだ」)を生み出すのは、その「鋭さ」ゆえではない。その鋭さが「心臓という生死の境界線」にまで達するほどのものだからである。どんなに鋭いナイフも、もしその刃の長さが1センチに満たないものなら、刺さっても致命傷にはならない。先述の通り、鋭さはしばしばクリティカルという言葉の理解として登場するが、じつはこれはその要素の一つに過ぎない。

ナイフから離れよう。頭蓋骨を粉砕する、という生/死の境界を跨ぐだけの固さ・重さ・勢いがあれば、けっして鋭さを持たないそのハンマーもクリティカルな存在たりえる。クリティカル=鋭さという理解では、境界に達するという意味が抜け落ちてしまう。境界線に限りなく近づくこと、境界線に達すること、あるいは達しようとする意志が、クリティカルを説明する。

境界線に立つこと。境界線を揺さぶること。

クリティカルな思考は、物事を分類し隔てる「境界線」それ自体に問いを投げかける。わたしたちの思考をあらかじめ規定している前提条件(境界線)、それ自体にゆさぶりをかけるのが、クリティカルな思考だ。

二項対立は世の中にあふれている。善と悪。優劣。勝ち負け。強さと弱さ。ほかにもある。人と物。主体と客体。敵と味方。男と女。文系と理系…挙げれば尽きない。

こうした二項対立は、のっかると楽だ。話が早い。なぜなら、それはしばしば議論や思考の前提条件となっているからだ。
ある行為は善か、悪か。そんなもの、状況に応じて、みななにがしかを判断しながら生きている。道に財布が落ちていたら、それをポケットに収めるか警察に届けるかを考えるだろうし、家までの帰り道、誰もいない通りで1日中付けていたマスクを捨ててしまうか否かを考えたりする人も、どうやらいるようだ(使用済みマスクは残念ながら財布よりも地面に落ちている)。そんな判断は誰しもする。議論もする。あれはよい、それはよくない。

だが、そのように物事を善悪に分類していくだけでは、「善とはなにか」、「悪とはなにか」、「何が善悪を分けるのか」といった突っ込んだ問いはそもそも議論の対象にはならないことが多そうだ。善悪を分かつ境界線それ自体は、あなたのなかにあらかじめ用意され、維持され、強化されてゆく。

もちろん、それは悪いことではない。物事に名前をつけ、分類することはいわば「科学」やわたしたちの「知」における、基本的な作業だ。哺乳類なのに卵を産むカモノハシのような「例外」はあるかもしれないが、ルールに基づいて物事を分類しなければ、客観的に物事を考えたり整理したりすることはできない。科学的な思考を基礎づけてきた近代の道具、それは境界線の策定である。

クリティカルな思考は、その境界線そのものの上に立って、境界線そのものを思考する。カモノハシがあらわれたとき、哺乳類をめぐるそれまでの境界線はゆるがされただろうが、カモノハシにばかり頼ってはいられない。つねに、あらゆる分類に、カモノハシは存在しうると想像しなければならない。人間は境界線を作る生き物であると同時に、それを作りかえることができる生き物でもあるのだから。
(カモノハシ、あなたもなんてクリティカルな存在だこと)

批判的に考えること、当たり前を疑うこと。それはすなわち、境界を疑うことと通底している。
当たり前を疑う批判的思考に出会って”あなた”が「( ゚д゚)ハッ!」とするのは、その瞬間まで”あなた”を構成していた思考の前提条件=境界線が問い直されたからにほかならない。あなたは「クリティカル・ヒット」を喰らったのである。

生まれ変わること、世界の再構成

クリティカル。この言葉に適した訳語は、「境界的」だ。
「クリティカルに考えること」はすなわち、「境界的に考えること」であり、境界を見つけ、境界の上に立って、境界それ自体を問い直すことだ。それが、批判的に考えることでもある。

クリティカルな思考は、思考の境界線をゆさぶる。それはすなわち、世界そのもののあり方(構成)を見つめるあなたの目を、まなざしを、作りかえることと結びついている。「クリティカル・ヒット」を喰らったあなたは、もはやそれまでの”あなた”から変化しているのである。これまでの思い込みを自ら作りかえ、もう少しだけ想像力豊かに世界をまなざすことができるようになっているだろう。

クリティカルな思考はなぜ大切なのか?それは、それによって”あなた”が、そして世界が、新しく生まれ変わるからにほかならない。

クリティカルに考えるってじっさいなに?
だらだら書いたが、そんな疑問へのわずかな手助けになれば幸いである。

※2022年1月2日追記。


その後、この思考の続編的な内容が(意図せずにせよ)書けました。
下のものも、ぜひご一読ください


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