そのお金、その時間、誰のもの? チョンキンマンションのボスに学ぶ、資本主義の半歩先。
※このテキストは『XD MAGAZINE vol.1』の「2020年 もっとも衝撃的だった本」というテーマで寄稿したものに加筆修正したテキストです。選ばせていただいた書籍は、小川さやかさん著『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』でした(書籍自体は2019年刊行ですが)。
「今、何人いらっしゃるんですか?」
ほんの数年前まで、中小企業の経営者同士で話していると、ほぼ100%この質問が繰り出されていた。相手の会社の規模を推し量るためだ。そこには、「企業は大きい方がいい」「成長は正義である」という資本主義信仰が、どうしても、どこかにこびりついていた。もちろん、企業を経営する上で、従業員数の伸びや昨年対比の収益の伸びは重要な指標だ。けれどもこの数年で、少し風向きが変わってきたようにも思う。
今回のパンデミックは、生きることを改めて振り返させる(本テキストの執筆は2020年12月)。「働く意味ってなんだろう?」「いい人生ってなんだろう?」。根っこの問いがあふれでた。もともと程度の差こそあれ、「この社会、何かおかしいかも」とみんなが思っていたのかもしれない。しかし、そうかといって、「やーめた」とはならない。相変わらず私たちは仕事をして、価値を生み、稼いでいかないといけないのだ。
チャーチルの言葉を引用し、「資本主義は最悪のシステムだが、それ以上のシステムはない」と語ったのはマーケティングの大家、フィリップ・コトラーだが、もしも「資本主義の次の形」があるとすれば、それはどんなものなんだろう。長い前置きから一足飛びな展開だが、その問いに応える有効な手がかりを、香港にいるタンザニア人、『チョンキンマンションのボスは知っている』。
チョンキンマンション(重慶大厦)は、香港のど真ん中にある建物だ。映画好きにはウォン・カーワイの作品でおなじみの場所。様々な店舗や飲食店が所狭しとひしめいている。ここで育まれている、出稼ぎに来たタンザニア人たちの暮らしを人類学的に描いたのが本書だ。
香港という資本主義の権化のような場所に出稼ぎに来るタンザニア人たちは、その過酷な環境下でも、独自のネットワークを形成してサバイブしている。本書で鮮明に描かれる彼らのネットワークの「互酬性」がなんとも示唆に富んでいるのだ。
彼らのコミュニティには、「努力が足りない」など資本主義の大好物である「自己責任」という概念がほとんど存在しない。同時にお互いの「信頼」も希薄だ。人はいつでも変わるから「責任を帰す一貫した不変の自己などないと認識しているようにみえる(本書引用)」。だからこそ、同じタンザニア人が困っていたらくれぐれも無理のない範囲で、お互いの持っているもの、たとえばお金や情報、人脈や時間などを共有する。気まぐれに助け合う。ルールや義務をできるだけ排除し、責任や負い目を曖昧にし、無理やストレスを強いない構造を独自に形成して生き延びているのだ。
そもそも、私たちは、いつからお金や情報や時間を自分「だけ」のものだと思うようになったんだろうか。誰かのおかげで生まれた仕事で得たお金は誰のものか。この文書を書く時間は誰によって確保されたのか。今日早起きをしたからか、パートナーが子育てを替わってくれているからか。このお金、この時間は、どこからが自分のもので、どこからが他者のものだろう。それはもっとゆるやかに、気まぐれに、共有されてしかるべきなのかもしれない。
「俺たちは真面目に働くために香港に来たのではなく、新しい人生を探しに香港に来たんだ」
チョンキンマンションのタンザニア人たちは、このパンデミックも、(そして度重なる香港の情勢変化にも)きっとお得意の互酬性でなんとかサバイブしているんだろう。私たちよりずっと軽やかに。
↑2014年当時に著者が訪れた際のチョンキンマンション