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踊る命


納棺

「明日の打ち合わせどうしようか。」
 
 祖父の死をLINEで知った時、頭に浮かんだことと言えばそれくらいのものだった。

 
 訃報を受けた三日後、僕は信州行きの列車に乗っていた。祖父の齢は九十七。先月、脳梗塞で入院し意識がない状態だったため、その死は予想外のものではなかった。そもそも人は死ぬものだ。だから、母から祖父の死を知らされたときも、取り立てて驚きはしなかった。

 乗車してから三時間、松本駅に着いた。冷え込み厳しい十二月。朝、東京を出た時と比べ日は高くなっているが、気温は一層冷えこんでいた。駅近辺には、意外にも大きなビルが立ち並ぶ。人通りはまばら、駅舎もビルも落ち着いた雰囲気で、あまり見たことのないタイプの駅だった。お城口を出てあたりを見渡すと、すぐの近くのロータリーに車を停めた母を見つけた。

 「来てくれてありがとうね。」
 母は運転席から微笑んだ。

「いや、大丈夫。」
 そう答えながら、僕はスーツケースを後部座席に放り込んだ。車は静かに発進し、斎場へと向かった。
 
 ロータリーを抜けて国道に入ると、冬の光が車内を照らした。母の話し声はいつものごとく明るいトーンだったが、ハンドルを握るその横顔にはどこか影があった。僕は助手席でじっと外の景色を眺めていたが、考えは自然と祖父の葬儀へと移っていった。

「おばあちゃん、どうしてる?」
 僕は窓の外を見つめたまま口を開いた。
「いつも通りよ。おじいちゃんがいない間に何をしておこうかって、そんなことばかり考えてるみたい。」
 
 「……もしかしてまだ知らないの?」

 母はちらりと僕を見たが、すぐにまた視線を前に戻した。
 「うん、まだ。」

 
 「……なんで?」
 喉元まで出かかった言葉を僕は飲み込んだ。祖父が亡くなってからすでに三日経っている。祖母はいつも一緒にいた最愛の人の死を知らずにいる――そのことが不自然に感じられた。

 少し間をおいて母は再び口を開いた。
 「おばあちゃん、認知症じゃない。おじいちゃんが倒れて入院した日も覚えていないのよ。だから、こうするのがいいと思ったの。」
「……そっか。」
 声のトーンは淡々としていたが、なにか覚悟のようなものを感じた。

「おじいちゃんが亡くなったことに気がついて、その度ごとに……悲しむことになるよりはいいと思ったのよ。」
 母はそう付け加えた。

 きっと、母の決断は妥当なものなのだろう。ただ、祖母が祖父の真の命日を知ることなく死んでいく――そのことが気にかかった。
 
 母は無言のまま運転を続けた。助手席の僕もまた黙って座っていた。エンジン音だけが車内に響く。その音がやけに乾いて冷たく聞こえた。
 

「あそこよ。」
 斎場に着くと母に促されて安置室へ向かった。そこには大きな写真が飾ってあり、生前の祖父の笑顔が見えた。そしてその写真の前には台が設置してあり、祖父の遺体がその上に置かれていた。
 
 僕は祖父の遺体に近づいた。祖父は、穏やかな顔つきで、まるで眠っているかのようだった。けれど、その姿は僕の知っている祖父のものとは違っていた。頬はこけ、目は落ち窪み、口元には白い綿が詰められているようだった。何より表情がない――いや、ひょっとすると「生きた人間だからこそ表情がある」と言うのが適切だったのか。
 「おお!洋一くん!元気だったか!」と、帰郷する際に見せてくれていた、祖父のあの笑顔はそこにはなかった。
 腹には腐敗防止のための冷却材が置かれ、その上で手が組まれている。その手に触れると、冷たく硬い感触が指先に伝わってきた。
 この手はもう動かない。目も口も開くことはない。祖父の遺体は、生者とは全く異なる無機質なモノに変わっているように感じられた。

「……そうかい。亡くなったかい。」
 少し離れた場所から懐かしい声が聞こえてきた。
「長生きしたよね。」
 母の声が聞こえる。
「大往生だったよ。」
 声のする方に目を遣るとそこには祖母がいた。祖母は今年で九十一歳になるが、しっかりとした足取りで安置室へと入ってきた。
「あら、こうちゃんかい!」
 祖母が僕に声をかけた。
「おばあちゃん、こうちゃんは私の夫。これは『洋一』、私の息子よ。」
「あれまぁ。あの小さかった洋一がこんなに大きくなったのかい。」
 祖母は笑顔でこちらに目を向けた。
「洋一、来てくれてありがとうね。」
 祖母は他の親族にも挨拶をしていった。夫の突然の訃報にも取り乱すことなく気丈に対処しているように見えた。

 一通り挨拶を終えると、祖母は静かに台の前へと進んだ。その瞬間、彼女の表情が崩れた。手を震わせながら祖父の顔に触れた。

「おじいちゃん……本当にありがとうね……大往生だね……よく頑張ったね……」
 それまで毅然とした態度だった祖母の目から涙が次々と流れ落ちる。その様子を親族たちは静かに見守っていた。
 
 
 「そろそろお時間です。」
 斎場のスタッフが声をかけた。これから一部の親族で納棺作業を行い、納棺後には棺を霊柩車に運び入れるとのことだった。
 
「お願いします。」
 そう言いながら祖父から離れる祖母の足取りはどこか不安定だった。その横に母がつきそい、祖母は別室へと向かった。安置室の扉が閉まりかけたその時、祖母は不意に立ち止まり、また部屋の中へ戻ってきた。

「おじいちゃん、死んじまったのかい……大往生だったねぇ。」
 そう言いながら、祖母は再び祖父のもとへと向かう。
 祖母は先ほど別れを告げたことを忘れてしまっているのだ――その姿を見てそう気づかされた。

「おじいちゃん、大好きだったよ。」
「私が踊りをやっているの、本当は嫌だったよね。許してくれてありがとうね。」
「私もすぐに行くから待っていてね。」
「ありがとう、本当にありがとう。」
 祖母は棺の前と部屋の外を四往復した。その度ごとに祖父へのねぎらい・感謝・寂しさを伝えていた。

「ああ。僕は何も分かっていなかった。」
 一連の出来事を受けて僕はそう直観した。
 人の死はありふれたことであり、冷静に処理すべき、処理できるものだと考えていた。しかし、祖父の痩せこけた顔、冷たく硬直した手、動かない身体と対面して、「死」という言葉が、初めて現実の感覚として突きつけられた。そして祖父の遺体と向き合う祖母の姿が――彼女の涙と慈愛に満ちた言葉たちが――僕の頭でっかちな「死」への理解を静かに打ち砕いた。自分の浅慮が恥ずかしくなった。祖父が亡くなったという実感が、みぞおちのあたりからじわじわと広がり胸を締めつけた。
 

 祖母が別室へ引き上げると納棺作業が始まった。台に敷かれたシーツのような白い布に、紐が八本ついている。スタッフが棺を祖父の遺体に横付けした。続いて、親族はその紐を使って遺体を持ち上げ、棺桶の中へと入れた。
 その後は、遺品を棺に入れる時間だった。祖父の大好きだったという、干し柿と焼き味噌おにぎり、校長先生だった祖父が行事などで話した内容をまとめた講話集、そしてたくさんのお花を入れていった。

 遺品の中に、一つ目を引くものがあった。一冊の、新潮文庫の文庫本である。随分と年数が経っているのだろう、書籍全体が茶色く日焼けしていて、背表紙にはセロテープが貼ってあった。奥付には「昭和三十年三月二十六日印刷、昭和三十年三月三十日発行。定價八〇圓。」、表紙には「藤村詩稿 島崎藤村著」と書かれていた。
 その詩集をパラパラとめくっていると、あるページに小さな付箋が貼られていることに気がついた。
「おじいちゃん、島崎藤村が好きだったのよ。」
 横にいた母が教えてくれた。
 
 

 納棺を終え、棺が霊柩車へと運び込まれる。
「娘さんはいらっしゃいますか?」
 スタッフの人に尋ねられた。
「呼んできますね。」
 僕は母を探しに行った。別室を覗くとそこには母と祖母がいて、二人で話していた。

「あら、こうちゃんかい!」
「……洋一だよ。」
 僕は一瞬戸惑いながらも笑顔で答えた。
「あれまぁこんなに大きくなって。」
 先ほどと同じやり取りを繰り返す。祖母が笑顔になったのだから、この際僕が誰かはどうでもよかった。
「お母さん、スタッフの人が呼んでいたよ。僕がおばあちゃんを見ているから行ってきなよ。」
 母は、ありがとうと言って部屋を出ていった。

 僕は祖母の隣に座ってその手を握った。祖母はふと顔を上げ、微笑んだ。
「洋一、あんたが来てくれて、本当に嬉しいよ。」
 その小さな手が少し震えているのがわかった。

 
「少し、昔話をしてもいいかい?」
 祖母の声は震えていた。しかしその声には何かを伝えようとする力強さが宿っている気がした。
 僕はただ頷いた。彼女の手を握りながら、過去に触れる準備をした。祖父と祖母が歩んだ時間、僕の知らない物語が静かに流れ始めようとしていた。

隊員の涙が志乃の腕を伝い落ちた。それは踊りを終えた志乃の火照った体を、一瞬だけ温めた後、冷たさだけを残して流れ落ちた。まるで彼らの熱が、最後の余韻を志乃に伝え、消えていったようだった。

「踊りの志乃ちゃん」
 このあたりで踊りをしている娘と言えば志乃のことだった。日本舞踊をしている人が他にいなかったから、志乃はちょっとした有名人だった。
 
 時は一九三三年、長野県諏訪の小さな町で志乃は生を受けた。父は新聞記者。鋭い目つきに少しだけ伸びた無精髭。無骨で粗雑な男――近所の評判はそんなところだった。一方の母は、名旅館の一人娘として育ち、立ち居振る舞いも言葉遣いもきちんとしていた。父は母とその旅館で出会い一目惚れをしたという。どうにかして振り向いてもらおうと必死に奔走し、やがて二人は恋仲になった。二人は結婚を考えたが、「新聞社の社長になったら娘をくれてやる」と祖父が頑として譲らなかったため、遂には駆け落ちするに至った。
 その後、母は祖父母から絶縁され、金銭的な援助を受けられなかった。父の稼ぎもわずか。食卓にはいつも簡素な食事が並び、生活は決して豊かとは言えなかった。けれど、両親は志乃を愛情いっぱいに育てた。天真爛漫な娘――それが志乃の幼少期だった。

 ある日、父が特攻隊員達を取材することになった。諏訪から車で半日ほど行ったところにある陸軍高田連隊区の特攻隊の取材担当である。陸軍高田連隊区は、新潟県上越市に位置し、当時の日本陸軍の重要な拠点の一つだった。当時の志乃はまだ四歳。父の仕事を手伝うべく母も同行していたため、志乃も母に抱えられながら父の後をついて行った。
 
 連帯区の景色は町で見るものとは違っていた。敷地内に入ると、赤いレンガ造りの建物が左右に並び、中央には訓練用と思しき広場があった。その広場には、特攻隊員たちが整然と等間隔で列をなしている。制服に身を包んだ彼らの表情は硬く、唇を真一文字に結んだり、拳を握りしめている者もいた。「志乃ちゃん、志乃ちゃん」と近所の人たちの笑顔を見て育ってきた志乃にとって、眼の前の光景は異様で、息苦しく感じられた。

「今日は慰問のために、芸人さんが来てくれるらしいよ。」
 そう父が言った。
 志乃は母の腕にしがみつきながら、広場の様子を遠巻きに眺めていた。広い敷地の一角、痩せた中年の男性が、古びたテーブルの上に道具を並べ何やら準備をしている。彼が噂の芸人のようだ。その様子を数人の隊員が興味なさそうに見つめていた。これから特攻に行くというのに最後に見るのが手品とは――そう言いたげな表情だった。
 
 芸人が準備を終えテーブルの前で軽く一礼をした。その動きは、どこかぎこちなく、足元がふらついているようだった。緊張しているのだろうか。志乃がそう思った瞬間だった。
 彼はつまずき、机の横に置いていた手品道具をすべてひっくり返してしまった。銀色のカップが音を立てて転がり、隠してあった鳩も顔を出した。広場に気まずい静けさが広がる。芸人は慌てて道具を拾い集めようとしたが、その姿は痛々しくさえあった。志乃の胸にもじわりと居たたまれない思いが広がる。

 その時だった。父が志乃に目を向け命じた。
 「志乃、踊れ。」

 思わぬ命令に志乃はびっくりした。踊りなんて、幼稚園で少しやったことがあるくらいだ。それに目の前には大人の隊員達が大勢並んでいる。志乃は戸惑い、母の袖を強く掴んだ。しかし父はじっと志乃を見つめていた。その目には、どこか懇願の色が見えた。

 母は志乃を軽く抱き上げて、広場の中央に運んだ。志乃はされるがままだった。そして志乃を下ろす際にそっと耳元で囁いた。
 「志乃、大丈夫よ。好きなように動いてみなさい。」

 志乃は何がなんだかわからなかったが、とりあえず手足を動かし始めた。幼稚園で覚えた「かもめの水兵さん」の踊りを、頭の中で思い出しながら体を動かしてみる。その動きはぎこちなく、足は震えていた。隊員達から向けられる視線が突き刺さるようで、何度も目を伏せたくなった。
 でも、手を振り、体を動かすたびに、その視線が柔らかくなるのを感じた。誰かが手を叩き始め、そのリズムに合わせるように志乃は踊った。体の動きに自然と歌詞が浮かび、気づけば声も出ていた。「か〜も〜め〜のすいへいさん。」彼らが笑顔で見てくれていると気づいた時、胸に不思議な安心感が広がった。人前で踊るのは楽しいことだった。

 数分経った頃だった。前列に座っていた兵士の一人が顔を覆い、肩を震わせているのが目に入った。連なるようにその後ろの兵士も、隣の兵士も顔を覆った。踊りが終わると、広場は再び静寂に包まれた。目の前の隊員達が目頭を抑え次々に涙を流していく光景を、志乃はぼんやりと見つめていた。
 
 しばらくして隊員達は立ち上がり、志乃のもとへ向かってきた。一人が膝をつき、志乃の手を握った。その手は大きく、熱かった。彼は涙を流しながら、「ありがとう。」と震える声で言った。隊員達は次々と志乃の手を取り涙を流した。その涙が志乃の腕を伝い、冷たい感覚として残った。その涙が何を意味するのか分からなかった。踊っている時も踊り終えた今も分からなかった。
 
 
 それからというもの志乃の踊りは連隊区の名物になり、志乃はこの地で踊り続けた。難しいことは分からない。ただ隊員達が喜び、手を叩いてくれるのが嬉しかった。だから踊った。

 けれど、歳を重ねるにつれて分かってしまった。見送った隊員達が誰一人戻って来なかったことに。そして、彼らの涙には、死を目前にした静かな覚悟と、自分が愛する人々への思いが込められていたのだということに。
 そのことに気がついた時は胸が痛くなった。けれど、その痛みと共に踊ることが志乃にできる唯一のことだった。志乃は踊り続けた。配給のご飯が少なく空腹で倒れそうになった日もあった。それでも、命を賭して戦う彼らへの尊敬、そしてその生き様への憧れを胸に抱き、その日が来るまで踊り続けた。

 そして一九四五年八月十五日、終戦。
 日本は戦争に負けた。

 その日、志乃は踊らなかった。ただ空を見上げ、飛び立っていった隊員達のことを思い出していた。誰一人として戻らなかった彼らが、今どこにいるのか。志乃の踊りが彼らの記憶に残っていたのか、答えを知ることはもうできなかった。

 「敗戦」
 十二歳だった志乃にとって、その言葉の意味を完全に理解することは難しかった。が、どことなく「空気」が変わったことだけは分かった。大人たちは深いため息をつき、町の雰囲気は重たく沈んでいた。その一方で終戦間際の緊張感は消え失せ、どこか安堵感のようなものも広がっていた。終戦の日、母がぽつりと漏らした「もう踊らなくていいかもしれないね。」という言葉が耳に残っていた。終戦後、志乃は踊っていなかった。皆それどころではない。踊りを披露する場所などなかった。

 
 ある日、見知らぬ男が家を訪ねてきた。痩せた体にグレーのくたびれた背広をまとい、ハンチング帽を被っていた。男は「橋本」と名乗った。その背後には、さらに異様な雰囲気の男が立っていた。背が高く、髭をたくわえ、深い青色の目をしていた。一九〇センチほどのその体躯は、志乃たち日本人とは明らかに異なるものだった。

「踊りで有名な志乃ちゃんの家はここかい?」
 橋本がそう尋ねると、志乃は無愛想に答えた。
「そうですけど。」

 彼は後ろに立つ男と会話を始めた。そのやりとりは、まるで遠く異世界のもののようだった。見た目だけでない。声や仕草、話す言葉まで違う。志乃はその光景を凝視しながら、内心でじわりと嫌悪感が広がっていくのを感じた。彼は「アメリカ人」に違いない――彼らは、特攻隊員たちを殺した仇だった。

 
「実はお願いがあってね。」
 橋本がこちらを振り向きながら言った。
「志乃ちゃん、君の踊りをアメリカの兵隊さんたちに披露してほしいんだ。」
 橋本がそう切り出すと、志乃は息を飲んだ。
「……嫌です!」
 声を荒らげてそう叫んだ。
「なんで、あんな人たちのために踊らなきゃいけないんですか?」
 橋本は困ったように眉を寄せた。
 「分かるよ、気持ちは。でもね。」

 それから一息飲んで橋本は言った。
「日本は戦争に負けたんだ。今、ここの支配者はアメリカの兵士たちなんだよ。もし拒否したら、お父さんとお母さんの命がどうなるか分からない。分かるね?」
 
 喉が締まり言葉が詰まった。
 「……お父さんとお母さんが?」

 橋本は深くため息をついた。
「志乃ちゃん、我慢だ。いいね。」
 志乃は何も言い返せなかった。

 その夜、見知らぬ男達の来訪について父と母に話した。父は黙って何も言わなかったが、視線を落とし拳を握りしめていた。母は目を赤くしながら志乃の手を握った。
 「ごめんね、ごめんね……」
 志乃は黙っていることしかできなかった。

 その晩、母は志乃の踊りの衣装を仕立て始めた。タンスの奥から赤い一張羅を引っ張り出し、裁縫道具を手に取る。志乃はその様子を見ないようにした。見てしまうときっと着られなくなってしまうと思ったからだ。夜通し響くミシンの音を聞きながら、志乃は眠りについた。

 
 夜が明けると衣装が完成していた。母は志乃の前にそっとそれを差し出した。赤い布は美しく裁断され、刺繍の糸が細かい花模様を描いていた。触れるとそれは驚くほど柔らかく、けれどどこか重く感じられた。
 「これを着て、精一杯踊ってね。ごめんね、志乃。」
 いつも気丈な母がこんなにも弱っているのを見たのは生まれて初めてだった。志乃は、「何とかしなければならない。」と、使命のようなものを感じた。

 
 踊りを披露する当日、父と母に連れられて、志乃は町外れの広場へと向かった。広場に入った瞬間、アメリカ兵たちのざわつく声と笑い声――日本語ではない耳慣れない言葉――が耳に飛び込んできた。彼らの背は高くどっしりとした体格が目を引く。肌の色や髪型も見慣れないもので、その一人一人が圧倒的に異質だった。志乃はまるで異国に迷い込んだような感覚に襲われ、より一層緊張した。

 「それじゃあ、行ってくるね!」
 志乃は父と母に向かって明るく声を張り上げステージへと向かった。視線を交わす余裕はなかった。足元を見つめながらステージへと向かう。

 道すがら、息苦しいほどの圧迫感が押し寄せてきた。すぐ脇には、自分が憧れ涙ながらに見送った特攻隊員たちの仇がいる――そう考えただけで、胃のあたりがぎゅっと締め付けられるようだった。
 「このままじゃだめだ。」
 志乃は小声で呟いた。踊りを成功させるためにも、この恐怖感をどうにかせねば――その一心で、咄嗟に父と母を目で探した。すると人混みの中にいる二人を見つけた。母は、目を伏せ口元を手で覆いながら肩を震わせていた。父は、腕を組みじっとこちらを見ていた。その眼差しは、真っ直ぐ志乃に向けられていて、不安の影はなく志乃への信頼が宿っているように見えた。

 その姿を見た瞬間、志乃は大きく息を吸い込んだ。
 「私がやらなくちゃ。」
 震える足を何とか前に動かす。一歩、また一歩とステージへと進んだ。

 ステージに立つと、アメリカ兵たちの視線が一斉に志乃へ向けられる。その無数の眼差しが志乃を鋭く刺しているように感じられた。心臓の鼓動が自分でも聞こえる。息が詰まりそうな空気の中、志乃は胸を張り、背筋を伸ばした。

「私は負けない。」
 心の中で小さく呟き、志乃は静かに踊りの構えを取った。
 
 
 踊りが始まった。
 ステージ上で歩を進めるたびに、複数の視線が追いかけてくるのが分かる。彼らの目に自分はどう映っているのだろうか。蔑みか、哀れみか、それともただの好奇心か。何もわからない。志乃は目を閉じ、踊りに集中した。

 自分以外なにも存在しないステージの上で、しかも仇敵の前で一人踊る。舞台上で感じる孤独。それを打ち消すように、志乃は自分の心の中を確かめた。自分には父と母がいる。そして、見送ってきた数多くの特攻隊員さん達がいる――「私は一人じゃない」。その思いが、彼女の足を力強く踏み出させた。腕は軽やかに、そして優雅に動く。その舞には彼らへの感謝が込められているかのようだった。

 不意に、すすり泣きのような音が聞こえた。初めは聞き間違いかと思った。が、鼻をすするような音が再び聞こえた。恐る恐る横目で見ると、最前列に立つ兵士の肩が震えているのが見えた。すると、一人また一人。やがてそれは広場全体に広がっていった。涙を拭う、いや涙で顔をぐしゃぐしゃにした兵士の姿さえあった。志乃が踊りを終えると、会場には静寂が戻った。

 一人の兵士が立ち上がり、志乃のもとに歩み寄ってきた。まるで熊のような体躯。その大きな手が志乃の小さな手をそっと包み込む。その手は意外なほど熱く震えていた。何か言おうとしたのか彼は口を開いたが、声にはならず、代わりに涙が頬を伝って流れ落ちていった。
 
 通訳の橋本がそばに近づき静かに言葉を紡いだ。
 「彼は故郷に家族を残して来ているんだ。君を見て、自分の子どもや妹を思い出したらしい。……」
 あまりの出来事に呆気にとられ、橋本の言葉が頭に入ってこなかった。異国の大男が目の前で号泣している姿はあまりにも衝撃的だった。

 「……戦争に子どもを巻き込んでしまった罪悪感もあるのかもしれないね。」
 その言葉を聞いた瞬間、志乃の中で何かが崩れた。憎むべき「仇」。そう信じて疑わなかったアメリカ人が「ただの人」に見えてしまった。彼らも、もがき苦しんでいるようだった。戦争に勝利したのに、およそ自由ではなさそうだった。もし、そうなのだとしたら、彼らは、そして志乃が送り出してきた特攻隊員の方たちは一体なんのために戦っていたのだろうか。
 その問いが胸の中で膨らみ、志乃はどうにも整理がつかない気持ちを抱えた。

 

「志乃、ありがとうね。」
 帰りがけ、母が志乃の横でつぶやいた
「ううん!いいの!」
 志乃は母の手を握った。
「それにしてもびっくりしたわ!大の大人があんなに泣きじゃくるなんて。やっぱり特攻隊員さんたちのほうがよっぽど強くて格好良かったわ。」
 志乃は冗談めかして言った。
「そうね。」
 母は微笑んだ。

 二人の足音が帰り道に響き耳に残る。志乃はふと立ち止まった。
 「お母さん、アメリカの人たちも志乃たちと同じなのかな?」
 母は足を止め、志乃の方を見た。それからその言葉を噛みしめるように一瞬だけ目を閉じ、そしてぽつりと言った。
「そうね……。でも、戦争が皆を変えてしまったんだと思う。」

 その言葉は、何もできなかった日々への悔恨と、それを受け入れた者の静かな強さを含んでいた。

 それから志乃はこの体験を学校で話した。特攻隊員たちを見送ってきた際に見た涙、そしてアメリカ兵の号泣。これまで胸の奥に閉まっていた想いを伝えてみた。きっと「戦争そのものが良くないのだ。」と。
 しかし、同級生たちは、そんな志乃の話を聞き流す者が多かった。「もう戦争は終わった。」「戦争なんて起きるわけでもないのに志乃ちゃんは何を言っているの?」といった具合だった。事情を理解している学校の先生が「志乃ちゃんの話を真面目に聞きなさい。」と援護してくれたが、それも捻くれ盛りな小学校高学年の生徒たちには逆効果で、笑い声さえ起きていた。

「どうして伝わらないの?」
 同い年なのに、ついこの間の出来事なのに。戦争を遠い存在のように感じている子どもたちと自分の違いが心に深い溝を作っていった。

帰還者

 志乃が二十八歳になった頃、周囲はすっかり落ち着いた様子を見せていた。志乃は、長野県中野市の南雲中学で教師として働きながら、踊りの道を続ける日々を過ごしていた。

 ある朝、職員室で机の引き出しを開けると一通の手紙が入っていた。丁寧に封をされたその手紙の表には、「志乃先生へ」と、丸みを帯びた可愛らしい筆跡で書かれている。封を切って中身を確認した。
 
 「またか……。」
 志乃は、小さくため息をつき、そのまま手紙を持って差出人の机に向かった。それは恋文であった。端正な顔立ちに堂々とした立ち振る舞い、そして日本舞踊という華やかな活動をしていることから、志乃は学校関係者みんなの憧れの的だった。同年代の男性教員が十五人ほどいたが、志乃はその半分以上から恋文をもらっていた。「志乃さんは一体どんな男が好みなんだ。」振られた男性教員たちが立ち話をしているのを聞いたことがある。「なんで結婚しないんだ?」年配の教師たちからはそんな言葉をよく投げかけられた。「志乃さん、もしかして男嫌いなんじゃないの?」と噂されていると聞いたこともある。
 
 「違うわよ。」
 そう心の中で思いながらも、わざわざ否定するのも面倒だった。女性は二十代前半で結婚するのが当たり前だった時代に、二十八歳で独身、まして付き合っている相手もいない志乃は目立つ存在だった。
 
 志乃自身は、周りから何を言われても平気だったのだが、両親まで蔑視されるのには心が痛んだ。結婚しない女性は「片端」と蔑まれ、時にはその家族まで同じように見られる時代である。自分の踊りの夢を支え、苦労して大学まで送り出してくれた両親、彼らのためにも「普通」に見られる努力をしなければならないのではないか。そう考えることもあった。
 それでも、志乃は結婚という選択肢に踏み出せなかった。周りの男性に魅力を感じなかったのだ。戦後の平和な時代を生き、苦労を知らず、安定した職業についた男性たちがなよなよしく見えた。彼らの求愛が軽薄に見えてしまい志乃の心は微塵も動かなかった。

 
 
 ある日の放課後、青山主任に呼び出された。彼は県内の教職員人事を取り仕切る地位にある有力者で、昔から親身になってくれていた。ただ、口うるさいのがたまに傷で、呼び出される時はきまって小言を言われたものだった。
 
「志乃ちゃん、相変わらず華やかだねぇ。」
 主任は進路指導室に入るなりそう言った。
「でもね、志乃ちゃん。教育は派手にやればいいってもんじゃない。地味で穏やかで、じわりじわりと子どもたちに染み込むものでなきゃいけないんだよ。」
 
「また始まった。」
 志乃はそう思いながら適当に相槌を打っていた。

「それで、志乃ちゃん……結婚はしないのかい?」
 唐突な質問に、志乃は思わず吹き出した。
「先生、突然なんですか。」
「いや、なに、私も心配でね。」
 青山主任はまっすぐこちらを見ながら話していた。どうやらこちらが本題だと言いたげな様子だった。
 
 なんで皆こうも他人のことを気にするんだろうか。余計なお世話だと思いつつも、
「そうですねぇ。強い男の人がいいですねぇ。」
 志乃はそう答えた。
「強いってどんなだ?」
 青山主任が食い気味に聞き返す。
「うーん、特攻帰りの人だったら会ってみてもいいですよ。」
 志乃はいたずらっぽくそう答えた。

 
 数週間後、新しい教職員が転任してきた。その男性は檜山清一と名乗り、木曽の中学校から来たという。南信エリアから北信エリアへの転任とは珍しい。彼の手短な自己紹介をぼんやりと聞きながら、志乃はそんなことを考えていた。

 それからしばらくしたある日の放課後、再び青山主任に呼び出された。
「志乃ちゃん、あの檜山という男はどうだい。」
 どうもこうもなかった。
「あの木曽から来た人ですか。まだちゃんと話していないですしよく分かりませんよ。」
 すると主任は、にやりと笑みを浮かべながら続ける。
 「あの男、特攻帰りだよ。」
 志乃は目を丸くした。
「言われた通り連れてきたぞ!」
 主任はガハハと品なく笑った。職権乱用甚だしい。冗談で躱したつもりの志乃だったが、どうやらしてやられてしまったようだった。

 
 職員室に戻ると清一が何か作業をしている姿が目に入った。年齢はたしか三十五歳。表情は硬く、おそらく口数は少ないタイプだ。姿勢はあまりよくないし、背もそれほど高くはない。ふむ、およそ女性にはモテなさそうだ。しかし授業は上手いらしい。生徒からの評判が良いとの噂だ。
 主任が持ってきた話でもあるし、恋文をもらったらお茶くらいはついていこうかしら。男性に誘われ慣れていた志乃はそんなことを考えていた。
 しかし、待てども暮せども清一からのアプローチは無かった。恋文どころか、用件以外は話しかけてくることさえない。挨拶を交わした後はたいてい自分の机に戻り、静かに仕事に戻る。それが清一の常だった。
 
 
 「あの人、本当に何も話さないんですけど。」
 志乃は少し呆れ口調で青山主任に報告した。

 主任は笑いながら肩をすくめた。
 「清一くんは寡黙で実直な男だからなぁ。でもな、志乃ちゃん、ああいう男は一度信じたら最後まで裏切らないんだぞ。良い男だ。」

 主任の言葉に、志乃は心の中で反論した。寡黙なのはいいけれど、あまりにも会話がなさすぎる。職員室で交わす言葉の数は、きっと全職員の中で一番少ないだろう。どうして主任はそんな彼を「良い男」と評価するのだろうか。志乃の疑問は深まるばかりだった。
 

 
 ある日の放課後、志乃が帰り支度をしていると、ちょうど清一も帰宅するところだった。
 話をする良い機会だと思い、
「せっかくなら一緒に帰りましょう。」
 と志乃が誘った。
 「そうですね。」
 清一はそう返事をして志乃のあとに続いた。
 
 校門を出て歩き出したが、清一は何も話さない。ただ前を見据えたまま、一定の速度で歩き続けている。
「せっかく一緒に帰るんだから、何か話してくれてもいいのに。」志乃は話題を探しながら心の中でつぶやいた。無言の時間が、妙に気まずかった。

「檜山さんって特攻隊帰りなんですか?」
 志乃は思い切って気になっていたことを尋ねた。
「誰から聞いたんですか?」
 清一は立ち止まってこちらを見た。声は上擦っていた。彼が示した初めての興味のように思えた。
「青山主任から聞きました。」
「……そうでしたか。」
 二人は数秒間見つめ合っていた。その後、清一は前を向き、それから視線を落として、再び歩き始めた。小さな仕草だったが、それが妙に重たく感じる。眉間にはかすかな皺が寄り、何か言葉を探しているように見えた。

「ええ、私は特攻隊員でした。」
 清一が口を開いた。
「徴兵されたのは十九歳の時でした。いわゆる学徒出陣というやつです。周りの友人たちが次々と戦地へ行く中、自分も逃れられなかったんです。」
 志乃は思わず息を呑んだ。
 「初めは何も考えていなかった。上官の命令に従って、ただ言われるがままに訓練を受けていました。でも、ある日『お前達は特攻隊だ』と言われてからは違いましたね。覚悟……というか腹を括るしかなかった。」
 淡々とした口調の裏で、清一の声がかすかに震えているように感じられた。
 「一緒に訓練をしていた仲間たちは、次々に出撃していきました。私は……鼻が悪かったんです。エンジンの故障に気づけないかもしれない、という理由で出撃を後回しにされてしまいました。仲間たちを見送るのは……辛かった。自分だけ残されて……。」
 言葉が途切れ、清一は深呼吸をした。
「それから、ついに私にも出撃命令が下りましてね。ようやく自分の番が来たと腹を括ったその矢先、『出撃はもう必要ない』そう上官から言われたんです。」
 清一と志乃の目が合った。
「そう、戦争が終わったんですよ。こうして私は今日までのうのうと生き延びてしまったんです。」
 清一はそこで言葉を切った。視線はどこか遠くをさまよい、その横顔には苦笑、とも言えない微妙な表情が浮かんでいた。
 
 
 再び無言の時間が流れる。次に沈黙を破ったのは志乃だった。
 「……私、幼い頃に陸軍高田連帯区で特攻隊の皆さんのお見送りをしていたんです。」
 清一は目を丸くしながら志乃のことを見つめた。
「私が日本舞踊をやっているのは知っていますか?」
「はい、他の先生方や生徒から噂は聞いています。」
「実は、その、初めて踊りを披露したのは特攻隊の皆さんの前だったんです。『どんぐりころころ』とか『かもめの水兵さん』とか、子どものお遊戯ですけどね。」
 話し出すと、止まらなかった。小学生の頃に心の奥底に押し込んだ想いを話してしまっていた。清一は、その話を、時折相槌を挟みながら静かに聞いていた。

 「だから、清一さんのお気持ち、少しですが分かる気がします。」

 住宅街に差し掛かり二人が別れる場所に近づいた。
 「私、喋り過ぎちゃいましたね。」
 志乃は気恥ずかしそうに俯いた。自分の過去や抱いていた想いについてこれほど饒舌に語ったのは初めてのことだった。
 「それじゃあ、また明日学校で。」
 志乃は軽く会釈をして去ろうとした。
 
 「ピシッ」
 清一は突然敬礼をした。その動作は鋭く、眼差しは真剣だった。志乃は思わず立ち止まった。

 少しの間があって、清一は笑顔になった。
「それじゃあ、志乃さん、また学校で。」
 そう言いながら敬礼を解除した。
「もう戦争は終わったんですよ?」
 志乃は冗談めかして笑いながら答えた。二人はしばらく微笑みを浮かべていた。
 
 その後、清一は一礼をしてその場を立ち去った。志乃は手を振って清一を見送った。
 
 その瞬間、志乃は自分の胸の奥で何かが動いたことに気がついた。
 
 彼の見せた敬礼、そして去っていくその後ろ姿が、戦地へ向かう隊員達と重なって見えた。戦地で何を見てきたのか、これまで何を背負って生きてきたのか。その小さな歩幅に、生き延びた者の重みが詰まっている気がして志乃は息を飲んだ。

「もっとこの人のことを知りたい。」

 志乃が清一に惹かれ始めたのはこの瞬間からだった。

 

火葬

 「それで、その後どうなったの?」
 僕は食い入るように聞いた。
 
 「それから、私がデートに誘うようになったの。」
 祖母は続けた。
 「でもねぇ、デートと言ってもお散歩ばかりよ。おじいちゃんが話すのは戦争中の出来事ばかりだったわねぇ。若者たちが楽しむようなロマンチックな場所に行くこともなく、愛をささやき合うようなこともなかったわ。」
 祖母は遠くを見た。
 「でもね、あの人の言葉は真摯で力強くてね。それで好きになっちゃったのさ。」

 それから数か月後、祖父と祖母は結婚した。同僚達は、「志乃さんはああいう寡黙なのが良かったのか。」と悔しがりながらも二人を祝福したらしい。祖父を木曽から連れてきた青山主任は特段喜んでいたとのことだった。

  
「おばあちゃん、そろそろ行くよ。」
 母が呼びに戻ってきた。これから霊柩車とともに火葬場へ向かうらしい。僕は祖母の手を取り母の待つ車へと誘導する。

「そういえば、おじいちゃんは島崎藤村が好きだったの?」
 祖母の手を握りながら聞いた。
 すると祖母は、
「アイ・ラブ・ユーなんてはっきり言う人じゃなかったけどね、あの詩集には私たちの甘酸っぱい思い出が詰まっているのよ。」
 と言った。その笑顔は無邪気な少女のようだった。

 母の車に祖母を乗せ、僕らは火葬場に向かった。斎場から車で二十分、火葬場は山の中にあった。到着してからはあっという間の出来事で、棺の前で別れの挨拶を済ませると、祖父はすぐに火葬された。
 「おじいちゃん、ありがとうね。」
 火葬炉の前、僕の横で祖母が呟いた。
 
 僕は火葬場の外に出た。冬の安曇野、空気は冷たく澄んでいて風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
 祖母の話を聞いて、僕は初めて彼らの人生に触れた気がした。小さい頃からお世話になっていたけれど、僕は彼らの人生について何も知らなかった。
 人間一人一人がそれぞれの物語を持っている。祖母が祖父の遺体の前で流した涙の意味が――「死」の重みと「生」の暖かさが――ようやく少し分かった気がした。

 
 僕は、遺品の詩集をめくっている時に見つけた、付箋が貼られていたページを思い出していた。
 

【初恋】

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり


やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり


わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな


林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

島崎藤村 若菜集


 風が冷たい。僕はコートのポケットに手を突っ込んだ。火葬場からは空高く煙が立ち昇っている。ハンカチはまだ湿ったままだった。

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