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現代建築家コンセプト・シリーズNo.22 『島田陽|日常の設計の日常』(LIXIL出版、2016)

皆さん、お元気ですか。
好きな吉田基已は夏の前日の藤城です。
僕は、先週の月曜日の朝にベットから起き上がることができず、タクシーで病院に行き即、車椅子に乗せられ運ばれ「坐骨神経痛」の診断を受けたこと以外は、元気です。まだちゃんと歩けません。道端に座り込んで休んでいたら優しいお兄さんに「大丈夫?」と声をかけられました。僕は元気です。

緊急事態宣言が解除されそうですね。混乱期が終わりコロナを前提にコロナを受け入れたウィズコロナの世界になりそうですね。
みんなで気をつけて経済を回す歯車になりましょう。

今日の音楽は、回り続けるということで
「からくりピエロ/初音ミク(40㍍)」です。
(PCの場合、曲を聴きながらnoteを読めます。)



前々回のADVVTとの共通性から選んだ本の紹介をします。
今回は、ほぼ選書からの引用文になっています。


現代建築家コンセプト・シリーズNo.22
『島田陽|日常の設計の日常』(LIXIL出版、2016)

[profile] 
神戸市出身。1997年京都市立芸術大大学院修了、99年タトアーキテクツ/島田陽建築設計事務所設立。

[about]

外から見た印象どおりの建物だと面白くない。昔から人の『認識』に興味があり、常に多義性を意識して設計している。見る人の意識を操作することで設計が多様になる。農村地帯に建つ『山崎町の住居』は温室のような外観は、周辺の農村と近くの新興住宅地をつなぐ存在となることを目指した。
学生時代に阪神・淡路大震災を経験した。学生時代にセルフビルドの作品を発表。いまは建築家が人々に期待されるような時代になっていないと現状を分析する。建築家の考えや能力が一般の方にも伝わるような発信をしていかなければならない。
少し距離をおいた関西から見ていると、東京の建築シーンでは、メディアに伝わりやすいように、コンセプトへ向かって余計なものをそぎ落としていくつくり方の建築が多いように見える。それは、強固な作品性があると言えるのかもしれないが、建築に対しひとつの言葉が対応するのではなく、日によって違って見える建築をつくりたいと思っている。


[selfbuild]

セルフビルドでつくるのは楽しく祝祭性があるが、できたものになんとなく広がりがないような気がしてしまった。セルフビルドの祝祭性に参加できる人は限られており、自己満足的、趣味的な世界に近づく感じがし、もどかしく感じてしまった。当時はセルフビルドを手段として使っていた。要するに誰にも発注できないため、自分でつくるしかなかった。それから、だんだんと状況が変わり、人にお願いをしてものをつくるのもおもしろいのではないかと思うようになりました。
「セルフビルドは、どうすればうまくつくれるかが設計の鍵になっているので、具体から抽象へと設計が進んでいきますね。抽象から具体か、具体から抽象か、それがぼくのような机上の設計者とセルフビルドからはじめた設計者との違いだと思うのです。」(青木淳)
建物の形式・構成が図式的であることに関しては、できるだけ構造をシンプルにつくるようには心がけている。しかし、全体の構造をすっきりと見せるために、あらゆる要素とディテールが構造に奉仕する建て方ではなく、ある種の裏切りがあってもいいと思っている。


「内庭」のある住宅

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庭を内包した住宅の試みは、篠原一男や最近の同世代の諸作まで多数あるが、僕にとって最も印象深いものは、学生時代に訪れた知人のアトリエ兼住居だ。その家の床には土間があり、にがりを入れずに突き固めただけで、テーブルの足元からは草が生え、飲み残しのお茶を土間に撒くような暮らしぶりで、どこまでが庭でどこから室内なのか、判らなくなってしまうようなつくりだった。そうした内外が入り混じってしまったような、おおらかな空間をつくりたいと思い続けている。

この「月見山の住居」の建主はリビングなどを収めた母屋と「はなれ」の浴室を、タープを掛けた中庭で繋ぐような暮らしを望んでいた。ただ、この敷地では開口部に防火性能が必要で、法的に認められるアルミサッシは寸法やガラスの種別に制限があり、そんなサッシを介して繋がった庭や「はなれ」が、果たして一体のものとして感じられるか、疑問だった。そこで思い切って庭を住宅の内部に取り込んでしまうことで内庭としてしまい、内庭とリビングはシングルガラスの軽快な木製建具で、「はなれ」としての浴室は内庭の一部をカーテンで仕切ってつくり出すことにした。内庭のアルミサッシは常時開放して空気環境的には外部として使える。外気と常に繋がることで、巨大なトップライトがありながらも温室のように熱が篭もることを避けられるが、内庭の上部には有圧換気扇を設け、速やかに換気できるように準備した。L 型の敷地に長方形の平面を配置することで、周囲の建物に囲まれた中庭的な性格の外庭と、内庭の間に住空間が位置する。建具によって室内にも室外にも出来る内庭のアイデアは、同様の性格を持つ「伊丹の住居」のベランダでの試みからの延長だが、今回試してみて都市部の庭としての可能性を感じた。都市部の外部環境は日陰や風通しの悪いところも多く、蚊などの害虫が生息しやすいため、快適に庭で過ごすのはなかなか難しい。そういった虫を網戸によってフィルタリングした内庭は快適に過ごすことができる。また、ある程度周囲に対して開いていてもプライバシーが損なわれない内庭があることは、とかく閉じがちな都市部の住宅にとって重要な内外のインターフェースとなり、室内気候的にもコミュニケーション的にも重要な中間領域となるのではないかと思った。


[book]
現代建築家コンセプト・シリーズは、判型とページ数だけが決まっていて、その他の中身や外見はそれぞれの建築家が自由に決めているため、それぞれのフォーマットが建築家を示している。今回は、ひとつの建物に対しひとつのテキストが対応しているわけではなく、断片的な文章とそこに少し関係する建物が挟まっているというつくりである。さまざまな断片としての文章が1冊の書籍にたまたま収まっているような本の構成。序文から始まってあとがきがあるのではなく、どこからでも読め、最後まで読むといつのまにか最初の話に戻っているような円環状の本である。その部分に前々回のADVVTとの共通性を感じた。
一つの建物の作品性があるが、それを全面的に見せているというわけでもない。コンセプトを純化させるというより循環させることにより濾過していくという感じがするのだ。

コンセプト

前者が純化、後者が循環


それでは、一旦やめさせてもらいます。

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