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どうする関ケ原、奇妙な家康「暗殺風聞」事件(大河ドラマ連動エッセイ)
大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は、大坂城における徳川家康「暗殺風聞事件」を描きたいと思います。よろしくお願いいたします!
徳川家康が、加藤清正らの力を借りて、奉行の石田三成を失脚させた前回のお話は、以下をクリックしてくださいね。
今回の内容を簡潔に申しますと、徳川家康が大坂城へ豊臣秀頼への挨拶に行った際、大老前田利長らの家康暗殺の「風聞」があり、家康が利長一味に処罰を下す、というものです。ただ、利長はこのとき、領国の加賀にいました。一体どういうことでしょうか・・
結論から言えば、家康による五大老の二人、前田利長、宇喜多秀家(利長の妹が秀家夫人)の追い落としです。家康は、どのように二人を屈伏させたのでしょうか。一次史料が少なく、謎の多いこの事件をみてみましょう。
(家康、毛利家内部問題に介入)
1599(慶長4)年閏3月13日、家康は、住まいを伏見城外の屋敷から、伏見城西の丸に移します。秀吉の晩年の居城であった伏見城への入城は、家康の天下人化の重要な第一歩でした。五大老の一人毛利輝元との間で、誓紙を交わしましたが、輝元が家康を「父兄」とする、というもので、輝元は家康に頭が上がらない状況になりました。
4月2日、家康は、島津義弘、忠恒父子と誓紙を交わします。大名間の誓紙は、現代の「不可侵」「準同盟」条約に近い性質があり、秀吉死後、五大老、五奉行間の取決めで禁じられていましたが、お構いなしです。
5月15日、毛利輝元、元養子の秀元に知行宛がいが行われます。長門と周防吉敷郡など17万石です。秀元はこのとき21歳で、もともと男児のいない輝元の跡を継ぐ予定でした。また、秀吉のお気に入りであり、弟豊臣秀長の娘を夫人としています。しかし、輝元に男児が生まれると、秀吉の肝いりで、独立大名として家を立てることになっていました。
秀元の領地は、毛利家中の問題ですが、独立大名となりますので、豊臣政権との協議が必要です。ここで、家康が絡んできます。秀吉は秀元に生前に、出雲と石見を宛がう予定でしたが、秀吉死後、石田三成ら奉行は、出雲、隠岐という案を出していました。輝元が石見宛がいを嫌ったためで、三成は、輝元に恩を売るつもりでした。しかし、三成が失脚してしまいました。輝元は、秀元に出雲を与える考えでしたが、秀元は長門を望んでおり、家康は、輝元の意向に反し、秀元の意をくんだ形です。また、出雲はもともと吉川広家の領地で、広家は領地替えを嫌っていましたので、家康は広家の意もくんだ形となります。輝元としては、メンツをつぶされた形となりました(1つ目)。
(家康、毛利輝元無視で島津家内部問題に介入)
6月、薩摩の島津家で有力家臣の伊集院忠真(都城10万石)を討伐する戦いが起こります(庄内の乱)。忠真の父忠棟は、秀吉のお気に入りで独立大名の扱いで、島津家中で、権勢が高く、当主の島津忠恒は彼を嫌っていました。同年3月、忠恒は伏見の屋敷で、忠棟を殺害します。島津家担当の奉行石田三成は、これに怒りますが、調停をしようとする最中、翌閏3月、失脚してしまいます。
三成失脚後、島津忠恒は、家康の許可を得て、伊集院討伐を行います。家康はここで九州の諸大名に加勢を働きかけますが、島津が自国に他国軍勢が入ることを嫌い、これを拒否したようです。この伊集院討伐は翌年春まで続き、家康の調停で、島津と伊集院は講和となるのですが、秀吉の遺言で西国を任されていた毛利輝元は、島津忠恒に手紙は送っているのですが、具体的な仕置きは、家康が取り行いました。五大老が島津のこの問題に関与することはありませんでした。ここでも毛利輝元はメンツをつぶされた形となります(2つ目)。
(上杉、前田の二大老、領国へ帰る)
8月3日、五大老の一人の上杉景勝が、領国会津に帰るため、伏見を出発します。景勝と家康は、これ以前に両家の婚姻について同意したとされています。上杉景勝は、夫人が武田信玄の娘で、有力大名とは婚姻を結んでいませんでした。徳川家との婚姻はお家安泰のためには願ってもないことだったでしょう。
同月、五大老の一人の前田利長も同月、領国加賀へ帰りました。利長の元の領地は越中でしたが、父利家から加賀の領地を引き継いだこと、利家の菩提の関係などが帰国の理由でしょう。父利家は、「大坂から3年は動かないように」と遺言していたのに、何を考えているのでしょうか。
(家康の大坂入りと要求事項)
前田利家の帰国で大坂が留守になった翌月9月7日、家康は、伏見から、大坂の石田三成屋敷に入ります。大坂城の豊臣秀頼に「重陽(9月9日)節」の挨拶をするためとされていました。家康は三万の軍勢を率いていたとされます。同日、大阪城に登城した家康は、3つの要求事項を掲げたとされます。
①小早川秀秋正室の江戸下向
②天皇の政仁親皇への譲位
③宇喜多秀家の大坂から伏見への移住
です。
①の大名正室の在坂は豊臣家への人質の意味があります、これを徳川家の人質とすると受け取れます。秀吉の遺命を大事にする多くの大名の反発を買う可能性が大きいのですが、理由は「秀秋の側室が出産するので正室の在坂は具合が悪いので」というものでした。小早川秀秋は、北政所の甥であり、小早川家を継ぐ前は、豊臣姓であり、関白秀次に次ぐ豊臣家承継者の地位にありました。秀秋夫人は、毛利輝元の養女であり、輝元は相当怒ったでしょう。ちなみにこの年秋、秀秋夫人は離縁し、毛利家に帰りました。これもです(3つ目)。
②の天皇の譲位は、秀吉の意向とは違っていました。これも、秀吉の遺命を大事にする多くの大名の反発を買う可能性が大きいものでした。
③秀家の伏見移住は、「西国大名は伏見在、東国大名は大坂在」という秀吉の遺命を持ち出しました。秀家は義父の前田利家と秀頼とともに、1599年1月より、大坂入りしていました。大坂で秀頼の近くにいることを止めさせようとしたものです。五大老のうち、毛利輝元は伏見、上杉景勝は伏見(会津帰国中、本来は大坂のはずだった)、利家は帰国中であり、秀家が伏見に移れば、大坂在住の大老がいなくなります(そこが家康の狙いです)。
秀家の在大坂は秀吉の遺言と言われています。前田利長と義兄弟であり、二人で大坂で秀頼を補佐するように、とのことでしたが、これは五大老に対する遺命なのですが、家康は、一般大名への遺命である「西国大名は伏見在」を強く主張しました。
(家康の「暗殺風聞」事件)
9月8日、家康に対して、奉行の増田と長束が、家康暗殺の計画があると伝えました。これは、密告なのか、風聞なのか、増田らが誰から聞いたのかよくわかりませんが、ここでは風聞としておきます。
風聞の内容は、「9月12日、家康が大坂から伏見に戻る際、五奉行の浅野長政(嫡男幸長の正室は前田利家の娘)と、大野治長(和泉佐野など1万石、母は、秀頼の乳母)、土方雄久(越中野々市2万4千石、前田利家の従兄弟)が家康を殺害する、その首謀者は五大老の前田利長だ」というものです。利長は、領国加賀に帰国中でした。
この「暗殺風聞事件」は、一次資料が乏しく、詳しいことはよくわかりません。本当に殺害するのであれば、その後、関東にいる家康の嫡子秀忠の軍勢とどのように戦うのか、そうした準備が行われていたとは思えません。
浅野長政は、家康ともともと親しく、殺害に加わるというのもおかしな話です。首謀者の利長が帰国中ということですが、このとき、利長が加賀で出陣の用意をしていたとの史料もありません。
9月10日、秀吉の遺言で、家康は秀頼母の淀と結婚する話があったとされます。この件はよくわかりませんが、家康としては淀を自分の味方としたいという考えはあったでしょう。毛利家臣の文書では、淀は大野治長と密通しており、宇喜多秀家の計らいで高野山へ隠れていたとのことです。
淀と治長の関係は公然化していたと考えられ、治長の処罰、つまり淀を屈伏させる上で、密通をあからさまにするわけにはいかないので、家康暗殺の一味とした可能性があります。治長をかばった秀家は立場が悪くなります。
9月11日、家康が、大阪城内の石田正澄(三成の父)屋敷に移ります。
同13日、秀家が伏見移住を承諾します。もともと伏見にいた家康と大坂にいた秀家が交替したような形になります。秀家は、利長と義兄弟であり、利長首謀の「暗殺風聞」は、秀家にとって痛手でした。大坂在住を堅持すれば、利家とまだ一味でいたいのか?大坂で家康を謀殺する気か?などと疑われてしまうからです。
秀家がいなくなった後、家康は、大阪城の秀頼直参家臣の事情聴取と篭絡を行っていたものと思われます。
9月26日、大坂城西の丸にいた北政所が、京都に移り、家康が西の丸に移ります。北政所の京都移住は、妹婿の浅野長政が、「暗殺風聞」での容疑者ということも関係があるかと考えます。つまり、北政所が浅野長政の命乞いをしたということです。
(関係者の処罰と加賀征伐)
10月8日、土方雄久を常陸太田(佐竹義宣領)、大野治長は下野結城(結城秀康領、秀康は家康の次男)、五奉行の浅野長政は武蔵府中(徳川領)に配流されました。本当に殺害を計画していたとするならば、死罪が妥当と考えられます。特に、浅野、大野は、徳川(結城)領への配流で、実質人質でした。大野は秀頼生母の淀のお気に入りでもあり、淀の人質とも言えます。なお、浅野長政は、同年12月には領国甲斐に滞在しており、配流が形式だけだったことがわかります。
この時点で、家康は、宇喜多秀家を伏見に追い払い、奉行や秀頼直参の協力を得て、北政所を京都に追い払い、大阪城西の丸に入り、前田利長に近い
浅野、土方を配流させます。また、前田利家と肥後の加藤清正(前田と親しい)に上洛しないように、との通達を出しました。
家康の狙いは、前田利長です。家康は、その領地の加賀へ攻め込む構えをみせます。前田家は和戦両様で応じます。家康との和解工作も進めます。
ここで仲介?に入ったのが、細川忠興です。彼の嫡男忠正は前田利家の娘を夫人としていました。前田利長一派の「殺害風聞」計画に入っていないのでしょうか。細川忠興は、前回お話した「七将襲撃」事件、石田三成失脚事件での家康の協力者でした。当然、この「殺害風聞」事件で、家康の命を狙うわけがありません。細川忠興は、利長の救済に動いたようですが、彼が行ったことは、三男忠利を江戸へ人質に出すことでした。このことは、「前田家が家康に人質を出すのであれば、加賀征伐はしない」というサインになりました。
12月、家康の討伐を恐れた利長は結局、実母の芳春院 (まつ) を人質として江戸に送ることを決定、家康に服従します(芳春院は翌年5月に江戸へ向かう)。利長の養子と、家康の孫娘(秀忠の娘)との婚姻も決まりました。
(事件のシナリオ、家康が秀頼補佐役に)
ところで、「暗殺風聞」ですが、暗殺計画は実際にあったのでしょうか。
まず、前田利長は加わっていないと思われます。もし首謀者であれば、家康殺害後、大坂へ速やかに入れるように軍事動員をかけているはずです。ただ、浅野、大野、土方の3人は、まったくの濡れぎぬであれば、激しく抵抗するでしょうが、その形跡が見当たりません。彼らが「計画を白状した(罪を認めた)」という記録もありません。あくまで推測ですが、三人のうち一人以上が警備上の何等かの動きをして、それが怪しいと言いがかりをつけられたのかもしれません。警備上の動きであれば、外見上は殺害準備と受け取れることも可能ではあります。大坂城の警備に仮に、前田家中が関わっているのであれば、、言いがかりもつけやすくなります。
「抵抗すれば、極刑をちらつかせ、抵抗しなければ、流罪ですます、首謀者の利長が悪いのであって、利長の処罰がされれば、大坂に戻れるかも」などというのが落としどころだったのではないかと考えます。家康は、利長の大老として事実上、失脚させることが目的であり、浅野、大野、土方はそのための手段にすぎなかったのですから。
前田利長は、秀頼の補佐役であり、宇喜多秀家、浅野長政、細川忠興らと縁組を結んでいました。加藤清正など豊臣恩顧の大名からも支持されていました。家康からみると、目の上のたんこぶでありました。家康は、「暗殺風聞」事件を経て、利長の母を人質にとることで、利長を屈伏させ、大老として事実上失脚させ、また、上に述べた「前田グループ」を骨抜きにしました。利長の秀頼補佐役を事実上解任し、大坂城西の丸に入り、自らその代役を引き継ぎました、これにより、一層の権力を手に入れたことになります。毛利、宇喜多は家康に屈伏した形となっています。次は上杉景勝が危険でした。彼は前田利長同様、領国に帰っていましたから、何をふっかけられるか、わかりません(続く)。
(まとめ)
・前田利長が大坂から加賀へ帰る
・家康が伏見から大坂へ、宇喜多秀家の大坂から伏見への移住を要求
・家康暗殺「風聞」が取りざたされる。首謀者は前田利長
浅野長政ら実行容疑者3人は、大坂城警備に関係か?
・秀家は伏見に移住承諾(利長加担容疑を恐れる)
・大坂城西の丸の北政所が京都へ移住(浅野の命乞いか)、後に家康が入る
・実行容疑者3人は流罪、蟄居
・家康、加賀征伐をちらつかせる、調停に入った細川忠興が家康に人質を出す
・利長が母を人質を出すことを決定、家康に屈伏