どうする信長、謙信との対決をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)
大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマでは、家康夫人の瀬名が、僧に扮した武田家重臣穴山信君と面会しているところが描かれていました。時代は、1576(天正4)年以降でしょう。
前回(毛利をどうする?)、書きましたが、1576年2月、1573年に京都を追放され、紀伊(和歌山県)にいた将軍足利義昭が紀伊から、中国の毛利輝元領の備後(広島県東部)の鞆へ移ります。義昭の足利政権再興の「指示」を受け、中国の毛利、大坂の石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信が反信長「同盟」を結びます。上杉謙信は1576年6月、毛利に対し、「来年、上洛する」と伝えています。今回のどうする信長は、この謙信との対決をどうする?です。
上杉の進路を見ると、越中(富山県)、そして加賀(石川県)ですが、ここは一向一揆勢力や反上杉の国衆などが存在していました。また、越中、加賀の北に位置する能登(石川県)の守護大名である畠山は、謙信と敵対しており、まず越中、そして能登を攻略する必要がありました。謙信は1576年9月、越中の一向一揆や守護代などを倒しました。越中には、親信長の神保長住がいましたが、敗れて流浪します。
謙信は同年11月、能登に侵攻し、守護畠山氏の居城七尾城(七尾市)以外の支城を次々と落とします。ただ、七尾城は山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難でしたので、1577年初、謙信はいったん、居城の春日山城(上越市)に戻ります。やがて関東へ出兵します。
七尾城の重臣、長続連は、親信長であり、救援要請が行われていたようです。信長は?というと、しばらく手出しはしません。同年2~3月は、紀伊の雑賀衆討伐で紀伊に出陣していました。越前(福井県)には柴田勝家らがいましたが、能登との間の加賀は、一向一揆が支配しており、これを破って能登にたどり着くことは容易ではありません。また、仮に加賀を破って能登にたどり着いたとしても、謙信の援軍が来て、能登で決戦や長期対陣となるのは避けなければなりませんでした。
同年閏7月8日、謙信が越中の魚津に着陣します。ここで謙信は、本軍を末森城(石川県志水城)攻略へ、別動隊を高松(同かほく市)へ向かわせます。能登と越前との連絡を断つ態勢です。このとき、信長は、挟撃策に出羽(山形県)の伊達輝宗を誘います。閏7月23日、信長は、出羽米沢の伊達輝宗に以下の書状を送ります。
「謙信は悪逆であり、きっと誅伐を加える。本庄繁長(下越)と連絡し、(反謙信の)軍忠をすることがよい」
つまり、下越(新潟県北部)の本庄とともに越後国内で騒乱を起こせ、ということです。結果から言うと、伊達も本庄も動きはしませんでした。
信長も伊達や本庄にどれだけ期待していたかは疑問です。同時に大軍の動員をかけており、8月8日には、柴田勝家が大将として、越前のほか、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、若狭(福井県西部)の軍を率い、加賀に入ります。織田軍は一向一揆が守る御幸塚城(小松市)を落としたようです。信長の馬回り(親衛隊)である長谷川秀一が加わっており、信長自身の出陣も予定されていたようです。謙信との決戦には、信長本人の出陣が必要です。信長は、加賀で謙信と決戦する場合、戦場付近と後輩地の絶対的支配が条件となります。柴田軍は、加賀南部を慰撫しつつ、敵性のある村や国衆の排除をしていったことと考えます。この時点でのどうする?は、、「加賀中部で、信長が出陣し、謙信と決戦する」だったのではないでしょうか。
ところが、8月17日、石山本願寺の包囲に加わっていた松永久秀が、居城の信貴山城(奈良県)に帰り、籠城を始めました。これにより、信長は北陸へ向かうことができなくなりました。松永謀反後のどうする?はどうなるのでしょう?
このとき、謙信は、能登と加賀の国境に位置する末森城を攻めていました。また、9月11日以降、加賀高松で能登畠山軍と上杉軍との間で、小中規模の衝突があったようです。9月15日、親上杉派の重臣の策動により、七尾城が落城します。9月17日、謙信本軍は末森城を落とします。謙信が南下する条件がそろいます。
一方、翌18日、織田軍は手取川(湊川:白山市)を渡河します。織田軍は、末森城の落城をしりませんでした。一向一揆に協力する百姓が多く、情報入手がままならなかったとされます。手取川北岸が信長の指示した着陣地か否かはわかりません。大雨で川が増水していたり、土地がぬかるんでおり、進軍がうまくいかなかった事情もあったかと考えられます。23日夜、謙信本軍の襲来の可能性を知った織田軍は撤退を開始します。そこへ上杉軍(謙信本軍ではない)が襲撃し、織田軍は約1000人が戦死、あるいは溺死したとされます(手取川の戦い)。
謙信は、撤退した軍隊が織田本軍とは認識しておらず、このあと決戦があると考えていたようですが、これで戦いは終わってしまいました。織田軍は小松など、加賀南部を焼いて越前へ、応援軍は近江(滋賀県)へ帰っていきました。七尾城が落城したのは、後で知ったとされます。
さて、松永謀反後のどうする?ですが、「松永を話し合いで降伏させるから待つように」ということだったのではないでしょうか。信長は、松永謀反後、直ちに軍勢を送らず、説得を続け、翻意を促します。結局、9月22日に嫡男の信忠を大将とした軍を奈良に送ります。信貴山城が落ちるのは10月10日であり、信長が北陸へ出陣する機会は失われました。
一方、待っている方は困ってしまいます。結局、北陸の織田軍は待っている間に、9月18日に手取川を越えて北進します。織田軍が動いた理由としては、9月11日での高松での戦闘の情報が入った可能性があります。畠山軍が敗退したと知っていたかもしれませんが、畠山軍を救援する態勢を現地軍の判断でつくろうとしたとも考えられます。
ところで、この北陸出陣について、信長の伝記である「信長公記」では、「秀吉は御届けもせず、帰陣してしまったので(信長の)逆鱗に触れてしまった」と書いています。秀吉がいつ帰陣したのか、時期は不明です。帰陣の理由も書かれていません。8月の段階なのか、手取川渡河前なのか(9月18日以前)、渡河後なのか(9月18日以後)、戦いの後なのか(9月23日以後)。後時代の資料では、秀吉が柴田勝家と喧嘩し、近江へ帰ってしまったとされていますが。
信長は美作(岡山県)の国衆の江見氏に9月27日付けで、「羽柴秀吉を中国地方へ差し越す」と述べているので、逆鱗に触れたのは、その前ということになります。27日と言えば、手取川の戦いの4日後です。敗戦の報告はすでに安土には届いていたと思いますが、謙信の動向については、不分明なところがあったはずです。江北長浜を本拠とする秀吉は、越前での決戦、長期対陣には欠かせない存在ですが、中国派遣というのは対毛利の重要性はあるにしても簡単な決断ではないと思います。信長としては、謙信は今すぐには越前には攻めてこないという、確信があったのでしょうか。
ここで、手取川の戦いの後の謙信について、どうする信長?ですが、越前での持久防衛戦を考えていたと思われます。次回は、信長の出陣は当然となります。謙信との対陣が長くなる、あるいは、越前が謙信に破られると、毛利が信長の勢力下にあった播磨(兵庫県)に大々的に入ってくることが想定されます。秀吉の播磨派遣は、その際の防衛対策もあったのでしょう。ただ、謙信は、手取川の戦いの後は南下せず、七尾城を修築し、居城春日山に帰ります。信長は1577年11月、従二位右大臣に昇進します。ここで官位は足利将軍(権大納言)より高くなりました。朝廷を後ろ盾に、将軍義昭より上位となり、その指示に従う謙信、毛利、本願寺を権威で、圧倒する態勢となりました。
一方、謙信は、1578年3月13日、死去します。関東への出陣の前であったとされます。信長は、最後のライバルというべき謙信と直接、戦うことはありませんでした。松永久秀の謀反がなかったら、、ついそう思ってしまいますね。謙信の死後、上杉家では家督相続の内乱が生じます。その後、跡を継いだ景勝は、謙信ほどの勢力を維持できず、1582年には、越中まで織田に攻め込まれることになります。信長の出陣なしで、柴田勝家らは上杉を圧倒するようにまでなっていました。
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