見出し画像

どうする信長、地政学でみる東国支配体制(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマは、一気に、1582(天正10)年3月の武田家滅亡と信長の徳川領通過が描かれていました。
 前回の信康事件(1579年8~9月)から3年もたっていますので、少しこの間の動きを追ってみましょう。
 1579年8月、明智光秀が丹波を平定
 1579年11月、摂津の有岡城が開城
 1580年1月、播磨の三木城が開城
 1580年3月、織田と北条が同盟
 1580年4月、大坂の石山本願寺と和睦
 1580年11月、柴田勝家が加賀を平定
 1581年3月、遠江の武田方高天神城が落城
 1581年11月、因幡の鳥取城が開城
 1581年11月、羽柴秀吉が淡路を平定

 織田の勢力範囲は、西は伯耆(鳥取県)の東、備前・美作(岡山県東部)、淡路、北陸は越中(富山県)の西まで拡大していました。備中(岡山県西部)で毛利輝元、四国で長曾我部元親、越中で上杉景勝と対峙しています。一方、武田ですが、信濃(長野県)で家臣の木曽義昌、駿河(静岡県)で重臣の穴山梅雪がひそかに織田、徳川へ投降してきます。いよいよ武田攻めとなります。
 武田の領地は、甲斐(山梨県)、信濃、駿河、上野(群馬県)の四か国に及びました。武田攻めは、信長の嫡男信忠が率いる織田本軍が信濃から甲斐へ。家康軍は駿河へ、北条軍は、駿河、西上野へそれぞれ攻め入った形になります。信忠軍は破竹の勢いで、信濃、甲斐を進み、武田勝頼は3月11日、田野(山梨県大和村)で滝川一益の兵に囲まれ、自害します。信長の軍は、まだ美濃(岐阜県)の岩村城にいました。
 ここで今回のどうする?東国支配をどうする?です。3月29日、武田の旧領は、甲斐と信濃諏訪郡が河尻秀隆、信濃川中島4郡が森長可、伊那郡が毛利長秀、上野と信濃2郡が滝川一益に与えられました。河尻と森は信忠の重臣、滝川は関東の取次となりました。北関東の大名や国衆が滝川傘下となります。そして、家康には駿河が与えられました(一部は武田旧臣の領地)。この所領宛がいは、信長が諏訪に在陣している際に行われました。信長は武田の旧領の宛がいは行いましたが、関東の大名、国衆の所領安堵は行いませんでした。これはどういうことでしょうか?

 信長は、その後の関東や東北の大名との関係を滝川一益に任せる考えでした。実際、その後、滝川一益が下野、武蔵の大名、国衆の所領安堵を行い、彼らのあいさつを受けたり、人質をとったり、などの手続きが行われました。そのうち、残りの関東や東北の大名も一益にあいさつに来るという見通しです。東北の大名も会津の蘆名、米沢の伊達、秋田の安東など、信長は彼らと数年前から、誼を通じており、鷹や珍物などの贈呈を受けていました。北関東や東北の大名との関係に何も懸念はなかったようです。信長は、彼らへの見せしめとして、武田の残党狩りを徹底的に行いました。これは甲斐の武将に限られました。武田を土壇場で裏切った小山田信茂などは許されませんでした。1573年の朝倉攻めで降伏した朝倉家の重臣とは異なる過酷な対応となりました。信濃などもともと武田領でない地の武将は投降を許されました。信濃上田の真田昌幸もその一人です。武田の菩提寺である恵林寺などでは、僧を焼き殺しました。これも、関東、東北の大名への見せしめ策です。

 こうした東国支配体制には、一つ課題がありました。相模、伊豆を始め、武蔵や下野の一部を有する北条氏政・氏直親子の扱いです。北条は武田攻めの際、西上野や東駿河を占領していましたが、立ち退きを求められました。上野では武田旧臣の真田昌幸などがいったん、北条に降伏しましたが、すぐに滝川に与しています。信長が武田滅亡後に行った武田遺領の領地宛がいでは、北条には何ら加増がありませんでした。また上のように占領地の差出しも求めました。
 信長がなぜ、北条を無視したのかというと、北条が臣下の礼をとらない、つまり、当主の氏政と氏直が挨拶に来ないためでした。信長と北条は、1580年3月、北条の家臣が上洛し、織田と北条の同盟が正式に結ばれます。ここでは、信長の娘が氏直に嫁ぐこと、関東八州が信長の分国(支配地)になることが合意されました。つまり、北条が信長の臣下になるということです。
信長としては、武田の衰退が予想より早かった、同盟相手としての北条の価値が低下したことも考えられます。
 信長にとって北条の扱いは遠国の大名統制のモデルとなるものでした。
関東では常陸の佐竹、会津の蘆名、米沢の伊達、九州では、豊後の大友、肥前の竜造寺、薩摩の島津など誼を通じているものの、当主の伺候を得ていない大名がいました。北条の屈伏を迫る必要がありました。信長は、駿河を通って、安土へ帰りますが、北条氏政は挨拶には来ませんでした。

 ここでどうする信長?です。北条をどうする?ですが、信長は、北条の領地を削り始めます。北条が下野の小山氏から奪い取っていた領地を小山に返させます。関東の反北条の大名や国衆の旧領回復を進める考えだったのではないでしょうか。少なくとも北条の領地を徳川の領地より少なくするくらいが目安だったかもしれません。伊豆と相模に押し込めるという具合です。
同時に、北条氏政・氏直の上洛、ひいては西国出兵を求めるという考えだったのではないでしょうか。家康は駿河拝領のお礼に上洛しますが、信長や明智光秀の中国出陣、信長三男の信孝の四国出陣を知ると、上洛のさなか、帰国後の西国出陣を指示していました。また、北条の隣国である家康に、北条の説得を託す考えだったかもしれません。北条の「徳川化」、つまり信長への臣従が進めば、北条との婚姻が行われるという算段です。

 どう考えても、北条は信長に屈伏せざるを得ません。一方、東北への対応ですが、越後の上杉景勝はやはり滅亡させる段取りで、有力武将に越後支配を任せるつもりだったのでしょう。越後からは出羽と会津をけん制することが可能となります。また、欠領ができた場合や養子縁組(次男信雄に北畠を継がせた)で、一族や家臣を関東、東北に配置することもあり得たでしょう。しかし、こうした青写真は、本能寺の変、信長の死亡で瓦解してしまいました。なお、信長の娘をもらいそこなった?北条氏直はその後、徳川家康の娘督姫と婚姻します。ただ、豊臣秀吉の北条攻めのあと、氏直は督姫と離婚します。おそらく父氏政が決めたのでしょうが、婚姻に恵まれなかった大名でした。

 ところで、信長の東国支配体制ですが、もう一つの課題があります。地理的中心地がない(弱い)ことです。信長、西からみると、織田の戦略方向の本線は、上野の滝川一益、その後援は信濃川中島の森長可となります。支線は甲斐の河尻秀隆、その後援は伊那の毛利長秀ということになります。武田の遺領を継いだため仕方がないのでしょうが、攻勢方向が二分しており、また、中心地がなく、軍事的態勢(重心)が弱いように感じられます。二つの領地を自領で結ぶ適当な通路もなく、う回路も山地経由となります。平時ならこれでもよいのでしょうが、軍事体制としては脆弱に感じられます。もちろん、滝川、河尻を押し込むだけの敵対勢力はこのときは存在していませんでしたが。
 古来、東国の中心は鎌倉でした。北条氏は小田原を居城としていました。のちに家康は、武蔵の国の江戸を居城としました。相模、武蔵は、東海道と甲州道の結節点でした。この結節点を軍事の中心地とすることが肝要です。そうであるならば、ここを領有する北条の存在はやはり微妙ということになります。一方、上野と甲斐は連絡が容易ではない地理関係にあります。仮に、信濃を中心とする場合、信濃も地形上、南北で分かれており、中心を定めにくくなっています。また、信濃を中心とした場合でも、駿河の家康の軍事力も使いにくい地理関係になります。
 とりあえず上野、下野、武蔵の北部の軍事力を滝川一益が上野を中心にまとめていくというのが初期方針であったようです。この場合、甲斐との連絡上、武蔵西部の鉢形城や滝山城の北条領が目障りになります。
 事実、本能寺の変後、滝川を攻める北条軍が武蔵から北進してきました。
実は、武田勝頼は、上野に欲を出したため、遠江を失い、信濃、甲斐をも失ったとも考えられるのですが、つまり、戦略方向を遠江のほかに新たに上野というかけはなれた方向に加え、二方面態勢を敷いたことが失策だと考えられるのです。信長も上野を得たために戦略中心の配置がうまくいかなかったと。信長は、武田のわなにはまったのでしょうか。
 のちに秀吉は、家康を関東に移すときに、その居城を江戸とするように指示したと言います。関東支配、東国支配を考えるときに、源頼朝依頼の関東南部を中心とする先例に倣いました。その後、江戸は幕末まで安全でした。敵は西からやってきたのは皮肉でしたが。。

 
 
 
 
 

いいなと思ったら応援しよう!