バロットはうまいなんてもんじゃない
ゴリゴリの外資系に行き社内言語が英語なわけでも外国人の彼女がいるわけでもない。ではなぜ、周りは学生時代の最後の思い出を刻みに友達と海外へ行き誰に指図されたのかインスタグラムのストーリーでマウントを取り散らかす大学生活最後の春休みにセブ留学することを決めたのか。しかもたった2週間。
2週間。
一体何が変わるっていうんだ。
そもそも留学に行く理由なんて限られてる。留学体験記なんてFacebookを開けば星の数ほど存在する。しかしこれまでに狂って眩しく光り輝くものはない。それは星の光が弱いのか、それとも僕自身が星に興味ないのかは定かではないが。
「留学へ行ってよかった、みんなも行くべき」なんて隣のやつが書いた感想文を見て心を動かされたことがないことと、僕が今書いているこの文章にはどこの誰にとっても需要がないことは同義なのかもしれない。別に誰にどう読まれようと、全く僕の関心事ではないのだが。I don’t give a shit とはまさにこのことである。
僕はこれまでの人生で留学へ行ったことがなかった。ましてや一人で海外へ旅した経験もない。
海外ドラマや最新洋画などを見て『海外』や『英語』に憧れを抱いていたのは事実だ。就活中にはいっちょまえに外コンを志望していたこともある。
それでも一歩踏み出せなかったのは、お金がないだとか時間がないだとか日本にいても英語は学べるだとか醜いほど必死に言い訳を探して自分を騙し続けていたからだろう。それに、みんなと同じことはしたくないって思っていたのだ、それこそみんなと同じように。
かねてより理由なんてものは二の次で、やはり言葉にできない感情が存分に含まれている。そういった様々な時代や文化や価値観みたいなものを共有することで僕たちは繋がっている。
カオスの中に身を投じる。初めて飛び立つ雛のようにただ知らない世界に掻き立てられただけなのかもしれない。
やはりというべきかあっち側の世界は想像以上に異なるものだった。これは行ったやつにしかわからない。日本で頭でっかちだった過去の僕には無縁の世界。チャレンジする機会が多く散りばめられていた。
この一歩は人類にとっては小さな一歩かもしれないが、僕にとっては大きな一歩となった。
人はそんな簡単に変われないのかもしれない。
それでも人が変化を諦めたら生きてる意味なんてあるわけない。
セブでの生活はまた今度時間あるときにゆっくり書こうかな。