忘れられてしまうすべての君へ
くるりの新しいアルバム『感覚は道標』に収録されている『朝顔』という曲がとても素晴らしい、ということについてちゃんと書き残さなければと思っていたが、いつのまにか時が過ぎてしまった。
この曲をはじめて聴いたとき私は、(おそらく他の多くの人が感じたように)彼らの代表曲でもある『ばらの花』を思い出した。
これはセルフライナーノーツで岸田氏自身が“『ばらの花』オマージュ”と書いているように、“「禁じ手」”を解禁したという楽曲制作による効果が大きいだろう。
そしてこの追憶の音色は『ばらの花』のみに留まらず、次のフレーズによって、くるりが過去に生み出した数々の名曲にも広く響きわたっていく。
このフレーズを耳にした私は忽ち落涙してしまった。なぜならばあの岸田繁が「君を忘れない」と歌ったからだ。これはとんでもないことだと思った。
「君を忘れない」
ここではこのフレーズの事の大きさのみに絞って掘り下げていきたい。すこし言葉を付け足そう。
前述のセルフライナーノーツで岸田氏は『朝顔』について、“リリックは、『感覚は道標』に入っている他の楽曲と同じく、「ここには居ない」、「かつて共に過ごした」存在についてのモチーフではある”と書いているが、実はそのようなモチーフは過去にもいくつかの楽曲で描かれている。
たとえば『東京』もそうだろう。この曲では東京の街に出てきた語り手の、遠く離れた場所にいるのであろう君に電話をしようかどうしようかという心の機微が描かれているが、そうした心象に対して次のような歌詞が充てられている。
ここにはいない君の回想だけでなく、君とのことで「忘れてしまった事」も歌われているのだ。
このフレーズは『東京』という曲の世界にぽっかりと穴を空け、それがどこか寂寥感を漂わせているし、心許なさを醸し出していると私は感じている。
そしてこの寂寥感と心許なさは以後も綿々と紡がれていく。
なぜならばくるりの楽曲には他にも、忘れられたり、忘れられそうになったり、思い出せなくなった「君(あなた)」がたびたび描かれるからだ。
それが描かれている楽曲の歌詞をいくつか引用してみる。
できればこれらの歌詞を心に留めて、もう一度『朝顔』を聴いてみてほしい。岸田繁が「君を忘れない」と言い切ったことの事の大きさが伝わるのではないかと思う。
『朝顔』はあらゆる時間や場所を超えて、過去の楽曲の中で描かれてきた君やあなたを背負って生まれてきた。
だから私は、歌詞を引用した『東京』や『カレーの歌』などで描かれている君やあなたにこの『朝顔』が届いたらいいなと、祈りのような気持ちを抱いている。
そしてその祈りは楽曲の世界を超えて、私自身の生活や人生とも繋がっていく。
誰しもが出会いと別れを繰り返す。「孤独」とはただひとりでいるということではない。その背面にはもうここにはいない君やあなたの「不在」がある。それもいつかは忘れてしまいそうになる。
そんな「忘れられてしまうすべての君」へ、この祈りが届いてほしいと願うのだ。
そしてまた、この「忘れられてしまうすべての君」は誰かにとっての私であり、これを読んでいるあなたも誰かにとっての君なのだ、ということ。
最後にこの曲の歌詞を引用して締め括りたいと思う。この曲もまた、深いところで『朝顔』と響き合っている。