見出し画像

たった1人のマラソン大会

僕はいま26歳にして、大学3年生。
幸い、就職志望先はもう決めている。

高校在学中にオーバーワークにより疾患を発症してからもう10年目になる。ひと言では話せない様々なことを回想する。三年半前、とあるBarのマスターに20代で人生を振り返るなど傲慢極まりない、金と挑戦と忍耐、これに尽きる、と告げられたことを思い出しながらも、今でも自分のアイデンティティ形成の中で決して外すことのできない出来事の一つをここに記そうと思う。

有楽町線マラソン。

和光市〜新木場までの区間を1マス = 50mと換算して、土の校庭グラウンドを周回で走りながら一枚のカード塗りを完成させるという僕が通っていた小学校の毎冬の恒例イベント。低学年は50m、中学年が100m、高学年には150mという目安のコースがそれぞれ楕円型の白線で引かれ、それを朝の教室入場前、中休み、昼休みの時間でどれだけ進められるかを競うというものだ。運動嫌いの者にとってはなんとも地獄のような行事である。自分は冬でも半袖短パンというわかりやすいわんぱく少年であり、体力にも自信があったために入学当初から夢中になって取り組んでいた。

そう、これでも中学まではほぼ皆勤の生徒であった。

自分で述べるのも億劫にはなるが、当時からコツコツと目の前の作業に取り組むことは得意な方だった。しかしながら、小学校1年生の時には惜しくも新木場までのゴールには至らず悔しい結果となった。

翌年になり、悲願の達成に向けてまた色塗りの時間が始まった。僕は判別がしやすいように走り終えるたびに異なる色の鉛筆でマラソンカードの進捗状況を確かめていた。だが、この年もあと一歩のところで頓挫。クラスでは紛れもなくトップであったが、目標に届かなかったことには本当に悔しさを滲ませていた。

すると、すこし経って担任のS先生に呼び止められた。このS先生というのはベテランのおばさん先生で、性格は真面目で厳格、不手際や失態などがあれば低学年といえど容赦なく叱りつけるような方だった記憶しかない。そのS先生が突然朗らかな笑顔で僕にこう告げた。

タツくん、もう一度走ってくれないかな?

僕は当然説教を受けるものだと思っていたから、なにか拍子抜けたような感覚だったことを今でも克明に覚えている。さらに先生はこう続けた。

マラソンシーズンは確かに終わってるよ
だから他の先生に何か言われないように
職員室で話は通しておくから、心配しないで

マラソンシーズンが終われば、普段と変わらず、特に球技で遊ぶメンバーが校庭の大半を占めるために、安全上の問題で原則マラソンを続けることは禁止されていたのだ。シーズン中は嵐のHappinessがBGMとして流れているのだが、もうその時点では僕以外に誰1人として走る姿はおらず、上級生たちも怪訝な表情で視線をぶつけてきたこともよく覚えている。だが、僕はこの年齢でこんな理想的な上司のような振る舞いを受けられたことを今でも嬉しく思っている。へそ曲がりな捉え方をするならば、隣のクラスではカード制覇の生徒が出ていた状況からしても、職員内での余計な雑音を消すために打算的な思考で僕に助言をしたという可能性もなくはないだろう。

でもだとしても、今でも僕はこの出来事がとても嬉しく、そして誇らしく感じる。あの普段あれだけ厳しかったS先生が自分のことをずっと気にかけてくれていた。もうそれだけで十分なのである。

色塗りを完成させた時の写真には、寝癖のついた少しダラシのない歯に噛む笑顔が映っていた。一度は諦めた到達点に至れたときに相応しい無邪気な表情だった。

実は大事なのはこの後からだった。この出来事をきっかけに努力の意味が自分の中で大きく変わってきていた。それまではただひたすら自分のために走り続けていたことが、結果的には思いがけない形で他者の喜びにも繋がっていたのだ。この頃からだったと思う。齢2桁にもならない時点で常に結果を期待される状態になっていたと自分では体感していた(その周りから要求される自分像に懸命に背伸びしていたツケは後でしっかり払うことになったのだが…。)ただ、だからといって、有名スポーツ選手がよく口にしているような、自分の振る舞いで「勇気と感動を与えたい」といったどこか上から目線な気持ちで動くような自分ではいたくないなと今は思う。

見えない努力をしている人の方がよっぽど立派だ。でもたとえ誰かに白い目で見られていたとしても、最後までやり遂げる努力も十分に大切なことだと思っている。僕の場合は校庭グラウンドではきっと頑固で異質な少年のように映っていただろうが、ある人にとってはなんとかチャンスを与えたい存在になっていたのだろう。

"たった1人"と表題にはつけたが、決して独りではなかったのだ。僕にはS先生という大きな後ろ盾があり、また教室に帰れば地道な色塗りの瞬間を待ち侘びてくれているクラスメイトもいた。そう、それは今でも変わらないのだとこの文章を書いていてふと思う。

あなたのために咲く花に
あなたはきっと気がつかない

僕の好きなフレーズの一つだ。

アジア南溟通信


最後に、僕の小学校後期あたりから下校の時刻に校舎の中で流されていた曲を紹介して終わりたいと思う。彼女も一つの精神疾患が理由で最期を遂げている。当時はベトナム戦争という悲惨な情勢が世界を大きく支配していた中で、戦場に送られる兵士たちの大きな支えとなり、そして終結した後も疲弊した国民の人々を癒し続けたという逸話もあるあの美しい天性の歌声だ。何度聴いても発音が本当に綺麗だなと改めて感銘を受ける。(下記はあえて日本語版主体のものにしました。今朝散歩中に立ち寄った公園で見かけた彩り豊かな帽子を被った園児たちの元気な様子に影響を受けたのかもしれません。原曲はもし気に入ってくだされば検索して聴いてみてくださいね)


気分を奈落の底まで落としていたり、なにかとずっと格闘している最中だったりする時は、この動画を煩わしく感じる人もたくさんいるだろうと思う。僕もこの曲を初めて聴いた時は正直あまりいい心地はしなかった記憶がある。なぜだろう。もしかしたら当時の自分はこんなに真っ直ぐ誰かに想いを伝える勇気がなくて、それを体現できている彼女に子供ながらに嫉妬でもしていたのかもしれない。今のあなたも同じか似たような感触があるだろうか。

でもいつかこのカレンの歌声が身体中に響き渡る瞬間、あるいはそれに近しい状況があなたにも訪れてほしいと勝手ながら僕は切に願う。今後一度も会えないとしても、これを読んでくれた人が1人でもいたと思えることが何より自分の救いになるし、ここまでの自分なりの葛藤を残そうとしたこのブログがあの時のマラソンのように誰かのエネルギーになってくれると信じて。

タツのお仕事

いいなと思ったら応援しよう!