名前を呼んで
私にとってアホかわいい人の部類に入るのは父とトシムリンだ。小学生の頃、
「わたし(ぼく)のお父さんお母さん」
というお題の作文を参観日に向けて書かねばならず、そのお題に隠されたテーマが「日頃のお父さんお母さんはお互いになんと呼び合っているのか?その理由なども日常のエピソードを踏まえて書いていきましょう」というもので、小学生にして早くも言葉をひねり出す産みの苦しみに突入した。
昭和である。
昭〜和〜、ショワショワショワショワ昭〜和♪とクレイジーケンバンドのあのフレーズが頭を過ぎるザ・昭和だ。
私が子供の頃のお父さんは世の中のお父さんも今のように子育てや子供との遊びに積極的参加は仕事を理由に参加せず、偉大で亭主関白なお父さんがまだまだたくさんいた中、まずほとんどの同級生の【お父さんお母さん同士が呼び合う呼称】は、父→母に「おい」だったり「おまえ」「お母さん」に対し、母→父は「あなた」や「お父さん」と呼ぶ時代だ。
そんな中で珍しくも我が家は父も母も名前。「ケンさん」「カヨ」と呼び合い、それは母が結婚する時にこれだけは譲れない条件だったそうだ。
「『おい』や『おまえ』で人を物のように顎で扱うのだけはやめてください。名前があります」
母は他のお父さんが愛情を持ってぶっきらぼうに呼ぶのと違い我が父が「おい」「おまえ」でもの扱いをしそうだと踏んでこの言葉を言った。母には先見の明があったと思う。実際そうでなくてもぞんざいな扱いであったからだ。
不思議なことに父はその条件を守った。
今思えば祖母と叔母(小姑)のイビリからはステルス機能を遺憾なく発揮して母を守らなかったのにそれだけ守った。
『オイオイ、守るとこそこだけ違うだろ』
今なら突っ込みどころ満載だ。
その父が羽振りが良くなり始めた頃のことだ。
赤い灯青い灯のママさんだかお姉さんだかに貢いじゃってヨイショされて気分良く帰る午前1時。
父なりに悪いと思っていたのかどうかは今もわからないが、飲んだ日はすこぶるご機嫌&母を持ち上げる。
その時の父はいつも【オレ様+厳格+エキセントリック】を足しっぱなしのご近所でも評判の「変わった人」だったのが酔って帰ってくると身体の芯を抜かれた軟体生物のようなぬるりにょろりとした歩き方になるのだ。加えて言葉もぬるりにょろりとするので「変な人」はスーパーサイヤ人並みに格上げされることとなる。
その「スーパーサイヤ人並みに変な人」が母へのヨイショがプラスされるときの母の呼び方は
「カァ〜ヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨちゃぁん♪」
ジュンジ・イナガワの怪談のようなビブラートを加えた言葉の反芻を駆使したあの呼び方で玄関の引き戸をバッシンバッシン叩き扉に倒れこむように崩れたあと玄関前で活きのいいタコのようにくねりながら鍵のかかった玄関扉に向かい
「お願ぁぁぁぁい、入れてえぇぇぇぇ」
と宣う。
子供心に合鍵で入りゃいいんじゃね?と思ったが、なぜか内鍵で開けてから入ることのみにこだわっていた。
普段は目の前の箸すら母を呼びつけて持って来させる父が
「ぉお願ぁぁぁぁい」
と懇願している。
ジュンジ・イナガワの扉が開く「んぎぃぃぃぃぃ」というオノマトペくらいの勢いで軟体生物のまま玄関扉にへばりつき崩れるように地面に寝転がる様を聞こえてくる音だけを拾い二階で兄弟と共に想像した。
想像は外れることなく心配になって兄弟と様子を見に行くと母が困ったように玄関扉前でこれから開けようと錠に手をかけていたところで私達に気づき
「心配しなくていいからあんたたちは寝てなさい」というが軟体生物の父を抱えるのも一苦労だし、と手伝うことになった。
「ごめぇんねぇぇぇ」
と普段自分が悪くても一切謝らない父がこの日この時だけは何に対してなのかわからないが謝ってくる。
水と胃薬を飲ませ服を脱がせ蒸しタオルで甲斐甲斐しく父の身体を拭き寝間着に着替えさせて再度「あんたたちはもう寝なさい」と促されて布団に潜る。
さて、翌朝の父は見事に昨夜のことを覚えてないのだ。
「知らん」と言えばそれまでなのだ。半分くらいは覚えていたと私は思っている。それでも知らんとシラをきる父で。…そんな一連のことを作文に書いて良いものかどうかと悩ませていた。
一応は伝えた。子供の拙い言葉ではあったが伝えた。したらば、酔っ払ったことは書かないと踏んだであろう成績重視の父は
「素直に思うことを書けばいいのだ。そこに事実とへなちょこの思ったことをハッキリと分けてわかりやすく書けば読み手に伝わるから」
と何やらかっこいいことを言い切った。
なので書いた。**
書きましたとも**。
あの日、母は「せめて提出前に読ませて欲しかった」と嘆き、父は「なぜ自分が笑われているのかサッパリわからない」として不機嫌で。父のご近所や学校の保護者からの認識は
「スーパーサイヤ人並みに変な人」から
「スーパーサイヤ人並みにたまに面白い変な人」
に進化しており、その進化の一端を私が担ったのはいうまでもない。
それで父が反省して夜中の
「カァヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨちゃぁぁんん」
がなくなったかと言えば無くならず、亡くなる一年前の健康診断を受ける前々日までこの状態をキープした。
一時は頑なに酔っ払った時の事を覚えていないものは無罪だと主張するので、当時の父が大事にしていた一眼レフカメラの残りのフィルムに痴態を残して黙っておいた。
当時、写真屋さんに現像した写真とフィルムを引き取りに向かった父が目の前で写真屋さんと確認をした時がこれ以上ない恥ずかしい思い出だったと病床で告げられて、
「実は半分くらい憶えてて恥ずかしかった」
と言われた時にコッソリと拳を握ったのはここだけの話だ。
父と母に倣い、結婚した私含む兄弟はパートナーを名前で呼んでいます。
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