見出し画像

50代にして初めてWILLで仕事を選択する覚悟(1)これって「介護離職」だったのね。。初めての転職

そういえば、私はどうやって仕事を決めてきたんだっけ。

私の履歴書は、はっきり言って「全然美しくない」です。
まぁまぁ見かける転職サイトの求人内容にある「転職回数〇回までが望ましい」という条件を以て眺めると、
なんか・・・採用担当からすれば転職には失敗してきたように見えるんだろうなと思います、書類上。

その時その時の転職するきっかけやタイミングから振り返ってみようと思います。


このままでいいのかな・・・の背中を押した「親の介護」

新卒で入った会社は、外資系のIT企業でした。
大学受験に失敗した私は、ビジネススキル系の専門学校で推薦をもらって、バブル崩壊直後にもかかわらず本当にラッキーにも順調な就職活動でマネージャー秘書業務・事務職として入社することができました。

いま思えば、何をそんなにもやもやしてたのかが全然思い出せないくらい、最初の会社での日々は楽しかったし、会社は好きだったし、そこで教えてもらったことが「三つ子の魂百まで」・DNAのようにいまの自分の仕事の土台になっていて、辞めないでいたら平和な人生だったかもしれないのですが・・・

20代の後半になると周りのライフイベントを見ながら、自分は失恋したり、親からは結婚しないのかと心配されたり、ちょっと理不尽だなぁと職場で感じることも増えてきたり、30代ってどうなるんだろうと不安を覚えていた社会人10年目が見えてきたころ、母の様子が変わってきました。

母はいまの私より3歳くらい若く、自身の母(私の祖母)を長年介護して、見送ってほっとしてから数年後のことでした。
徐々に自分で記憶や行動をコントロールできなくなってきて、祖母と同じように物忘れが始まってきているかもしれないことを認めたくない恐怖で錯乱状態になる日が増え、母を家に一人にしておけなくなり、父は会社を辞め、家族が交代で母を見守る日々が始まりました。今思えば更年期の気持ちのゆらぎでの不安定さもあったことと思います(当時は理解してあげられなくて、今は共感できる)が、ほどなくして若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。

(母の介護のことは、後日ここに詳細をリンクしようと思います)

いわゆる”ライフイベント”って、結婚とか出産とかのことなんだと思っていましたが、そのイベントが来る前に、母のケアと家事と仕事を毎日境目なくする日々に突入しました。境目がなかったから、それまで自由にやってきた趣味や、現実逃避の買い物で自分の時間を使うことも全力でやったりしました。
さすがに積み重なり、ある日仕事中に意識が飛んで倒れたことをきっかけに思考が停止しました。
「私、仕事いまそんなに楽しくないし、ストレス発散で買い物とかしても満たされないし、お母さんが泣き止まないと仕事に出られないし、帰らないとお父さんが寝る時間作ってあげられないし、家の中の空気が重たすぎる。。ええい、一回リセットしよう。お母さんをお昼ゆっくり介護したら穏やかに生活できるに違いない」

母のケアに専念するという宣言は、まだ日本の介護保険制度が始まって3年も経たない2003年前後では、女性が会社を辞めることができる理由としてはごく自然でした。
この時はまだ「介護離職」なんて言葉は聞いたことがなかったです。

退職を決めると、先輩や同僚たちが優しく励ましてくれました。それに一番お世話になった上司は、相談してくれればうまく仕事と両立する方法考えたのに、なんで一人で決めたんだと怒ってくれました。退職するその日に、自分の恵まれた環境を本当に愛おしく、惜しくなってちょっとひるみましたが、
この時の私は、母の介護をしながら次のことを考える余裕もできたら、また何かの仕事をすればいいと思っていました。

仕事をしてこその守られた生活であったことに気づくのは、会社を辞めてすぐ後です。

働きに行かねば、で介護離職終了

母の面倒を見ながら穏やかに生活をする・・なんていう”物語のような生活”は、意外と早く終わることになります。

しばらくの間は退職金やちょっとの蓄えと、父の年金、弟にも助けてもらって生活ができていました。
朝はまず母が不穏になり泣き始めるので、それをなだめ、食事を用意して、時間をかけて食事をするけれど、すぐにまたお腹が空く母におやつを用意して、トイレについていき、母を連れて買い物に行き、ヘルパーさんが来たり弟が家にいてくれ時は少し時間を作ってもらって掃除と洗濯をして、料理して、ごはんを食べて、眠るまで一緒に居て、夜中母が泣くと子守歌を歌ったりもしました。これを父と交代で繰り返す日々。
でも、母は日を追うごとに不安定になり、落ち着いてもらうために処方してもらうお薬がどんどん強くなり、副作用が出てこれ以上の投与は難しいと先生に言われたところで、ついに自宅での介護を断念し精神的な不安定な状態を緩和させるために必要な措置入院をすることになりました。
ここまで、退職後わずか5か月ちょっと。泣きながら病院に母を連れて行った日のことは忘れられません。

これで少しゆっくり眠れるとも思いましたが、それ以上に、こんなに早くあっけなく在宅介護を断念することになった自分が情けなく感じました。

ただ後戻りはできないし、入院中の母への面会・洗濯などの対応は頻繁にする必要がありました。母の介護や入院に役立つ知識も身に着けていつか仕事にも役立てようと思い、とりあえず雇用保険をもらいながら医療事務資格を取得する教育訓練を受けたりして、しばし休業期間を有意義に過ごさせてもらいました。

が、そんなに悠長なことを言っていられなくなりました。
母の医療費が高額で、その支払がめちゃくちゃ苦しくなっていたのです。
まだ母は50代で、医療費は3割負担・かつ緊急性の高い措置入院。高額療養費の上限に加えて差額ベッドの費用は膨らむばかり。
雇用保険はもう間もなく受給期間が終わります。そして医療事務の資格が取れたものの、教育訓練中にハローワークで紹介してもらった医療事務を活かせる職場のお給料では支払も生活も間に合わないと判り、結局慌てて転職エージェントに登録してIT業界での再就職を目指すことにしました。

ここで、会社を辞める前に介護休業制度を調べていたことを振り返りました。90日しか使えない制度なんて、いつ終わるかわからない介護に有効なんだろうか・・と思って退職を選択したけれど、もしかしてやりようあったのか・・介護保険も会社の制度も理解できていなかったことを、自分に対してがっかりしたのを覚えています。

仕事をしなければ母の療養する居場所は維持できない。生活は守れない。
単発派遣で1,2か月ほどつなぎながらの活動の結果、ソフトウエアを開発販売しているベンチャー企業で社長秘書の仕事が見つかり、10ヶ月程度の「介護離職期間」は終了しました。

これが私の初めての転職であり、ここからがお仕事クエストの始まりです。





いいなと思ったら応援しよう!