ファッション誌
ファッション誌が好きだ。モード系の。毎月買っているわけでもないが、図書館で見かけると必ず立ち読みしてしまうし、vogueのホームページやyoutubeチャンネルは(無料なので)一生見ていられる。
そもそもファッションが好きなのが一番大きな理由なのだろうが、なぜモード系ファッション誌か。ファッション誌なら他にも山ほどある。
直感的な「好き」なので、わざわざ理由を付けて語るまでもないが、しいて言えばモード系ハイファッションは他人に媚びてる感じがしない。かといって「自分ウケ」という言葉に代表されるような自分だけで完結している感じもない。「自分」を最大限引き出し、他者からの視線までもファッションの一部として巧みに着こなす。
そういえば昨日、Dior展に行った。せっかくだからそのことも書いておこうと思う。美しいドレスがずらりと並ぶ様子はまさに圧巻だった。マネキンが黒いだけに、色彩の鮮やかさ、あるいは鈍さ、布の質感が映える。ドレスを彩る演出も見事で、制作陣のDior愛が伝わってきた。私は制作陣の展示への愛情が伝わってくる展示が好きだ。
ただ、一つ足りないものがあった。そもそも展示し得るものではないので展示としては何不足ないが、「Diorのドレス」それ自体に焦点を当てた時に物足りなさを感じた。-動きである。
もしくは、人間の身体とでも言おうか。Dior展のマネキンが動くこと決してない。仮にでも動いたらホラーだ。(真夜中にドレスを纏ったマネキンが動き出したりなんかしたらそれはそれでロマンチックかもしれない。)
動きが足りない、そう思ったのは空調設備による僅かな風でドレスの裾のタッセルがかすかに揺れ動いているのを見た時だ。
もし、これを人間が着たら。
ファッションショーのランウェイをこのドレスを着たモデルが颯爽と歩いたならば。
さぞかし美しいだろう。布が幾重にも重なり、波打ち、モデルの肌をかすめる。
展示の中でもドレスが実際のファッションショーで着た様子はビデオ資料として展示されていた。写真家の高木由利子が撮りたかったのはそういう動きだったのではないか。静止画でいかに「動」を表現するか。
服は、もっと拡大して言えば、人間の身体を縁取るファッション(つまり、服だけでなくコスメ、香水、アクセサリー、小物、人間を外側から定義づける全てのモノ)は、人間無くして完成しないのではないか。
ファッション誌は、服だけでなく服を着るモデルやアーティスト、セレブなどの個人にも焦点を当てて記事を作っている。ファッションを知るには、物質的なアイテムとしての「モノ」だけでなく、それらを身にまとうという「コト」にまで解釈を広げなければならない。
私たちはもはや、消費のための「モノ」だけでは満足できない。(コロナで打撃を受けたものの)観光業が莫大な市場を築いたのも、「推し」のアイドルの握手会に大量のヲタクが殺到するのも、「自己投資」と銘打って自分のスキルアップにお金を使い、その講座や「自己啓発」的な本が一種のビジネスとして完成しているのも、私たちが「モノ」だけで満たされず、「コト」に飢えている証拠なのである。
なぜハイブランドを着たがるのか。それこそまさに「コト」のファッションだと思う。
ひとがハイブランドに憧れ、欲する理由とは。伝統による信頼、こだわりの素材、耐久性、質…。もちろんそれらを理由にハイブランドを身に着けている人間はいるだろう。(私の父なんかがそうだ。)だが、それだけではないはずだ。
「物語」だ。私たちはブランドの「物語」を求めてブランドの服を着る。ブランドそれぞれにそれぞれの歴史があり、それぞれのタッチ、コンセプトがある。それらすべてが折り重なって一つの「物語」としてブランドの商品にイメージがプラスでされる。
人間のファッションスタイルには様々な名前が付けられて、種別化がされている。その中で地雷系なら…港区系なら…原宿系なら…という風にブランドも紐づけることができるのは、その「物語」性に依拠している。
※特に私のような若い世代の中で感じることだ。もっと上の世代は違うかもしれない。
※とくに私はVivienne Westwoodがすきだがこのブランドにも「物語」を強く感じる。まぁ、どのブランドだって「物語」があるから「ブランド」になるわけだけど…。というのも、ヴィヴィアンはよく「NANA」という漫画と一緒に語られるわけで、そのファンがよく身に着けていることでも有名だ。実際ヴィヴィアンを身に着けていると自分がそのパンクでロックな世界観に入り浸ることができる。「NANA」からヴィヴィアンを好きになるファンも少なくない。ちなみに私は逆ルートで、ヴィヴィアンが好きだから「NANA」を見てみようかと思ったが、世界観は好きだけどストーリーがそんなに刺さらなかった。
そして、ブランドの「物語」性が強いだけに、「ノーブランド」あるいはそういった付加価値のないファッションにも「物語がないという物語」が見出された。古着を代表とするグランジファッションである。グランジに分類されなくても、「ブランド」を形骸的であるとして「中身」にこだわることに意味を見出す連中も「物語がないという物語」を身に着けているとは言えないか。
つまり、何かを身に着ける「こと」には何らかの「物語」が必ずある。私はこの「物語」を一人一人に聞いて回ってみたい。
今日のファッションポイントは?なんでその服を選んだの?
見知らぬ赤の他人に聞くのも面白いかもしれないが、私はとくに身近な知人なんかにこれを聞いてみたいのだ。
私の友だちに岸正彦の「東京の生活史」が好きだと言っているやつがいる。(私も気になっているのだが、その分厚さから本屋や図書館から持って帰ってくるのを毎回ためらって読んでいない。そろそろネットで取り寄せたいけど積読だらけで後回しになっている…)
ファッションとは先述したように、服やメイクだけにとどまらず、人間を外側から定義するものすべてである。毎朝のルーティーンや、今日食べたもの、お気に入りの場所、好きな人。そういう生活の一つ一つがその人を縁取るファッションたり得るのではないだろうか。
私はその「モノ」と「ひと」の織り成す「物語」に立脚した記録をしてみたい。
この間、友達と4人で集まって食べ物を持ち寄るパーティをしたときに、ファッション系のサークルを大学でやってみたらどうだという話をした。もともとICUにはそういったサークルが少なくとも2018年まではあったようで、今どうなっているのかはわからないが、興味があると私が言い出したのがきっかけだ。
もし、それが実現可能なら、そういう「物語」を記録するファッション誌を作ってみたい。有名無名にかかわらず、一人一人の「物語」を丁寧に記録してみたい。
まぁ、できるかどうかはわからない。私の根気がどこまで続くのかという問題もある。ファッションのトレンドさながら、私の興味関心は季節のように移り変わっていくので。
とはいえ、私の好きな古典の先生が「気軽に挑戦して、気軽に立ち止まる」ことが必要だと言っていたので、気軽にやるだけやってみて、飽きたらやめるか、もしあの4人で協力してやるなら他の3人に投げちゃってもいいかな、ぽーい。なんて無責任!気軽でいいね。