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出川哲朗はいつ嫌われ芸人から好感度芸人に変身したのか?

出川哲朗を初めて世に広く知らしめたのは電波少年である。紛争地帯であるボスニアに飛び小銃を持つ兵士に囲まれながら当時国連機関にいた明石代表に明石焼きを食べさせるという企画がデビュー戦。その後ピラニアのいる川に自らが生き餌となり沈みサメが群生するオーストラリアの海にもシャークゲージと共に潜り”トンボ捕る網”一本で戦った。当時電波少年のメインキャラクターだった松村邦洋と全く同じジャンルの『危ない目にあってこそそのリアクションが際立つ』リアクション芸人として瞬く間に有名になって行った。
しかしそれは電波少年が松村邦洋と共に開発した『みんなでいじっていい芸能人』というジャンルのメンバーになったということであり他の番組のロケ中に渋谷のチーマー達80人に「出川狩りだ〜!」と追いかけられたりすることになった。当時住んでいたアパートに不良たちが押しかけドア前で「出川出てこい」と騒がれる事態まで発展した。このアパートの住所を不良たちに教えたのは”追い込んでいい芸人第1号”の松村邦洋が自分のところに来た不良たちの矛先を逸らすために教えたからであり、そしてそれによって電波少年のロケで笑いが起きたことで「ありがとう」と言い合う二人の姿は微笑ましいとしか言いようがない。
電波少年における出川哲朗へのミッションはエスカレートをしていき盟友松村邦洋が開発した”バウドーム”を世界中に配るという使命を帯びて世界中のハードゲイクラブに単身潜入したりもした。
この時期出川哲朗の名前は全国に知られることとなり雑誌の「抱かれたくない芸能人」アンケートで3年連続トップに立ち殿堂入りもした。考えれば別に本当に”抱かれたくない”と考えたわけではなく日本中が『そう突っ込んでいい何を言っても許される一番の芸能人』というポジションを獲得したということである。

そんな出川哲朗が今や『好感度調査で上位に来るタレントになりその証左であるCM出演が7本!』になっている、これはいったいなぜなのか?これを解明したいというのが僕の昨日の電波少年Wの裏テーマであった。

本編と限定動画で行ったり来たりしながら僕と出川と松村で話したいくつかの印象的なコメントを列挙してみる。
松村「それは電波少年が終わったからですよ」
出川「僕は自分では変わったとは全く思っていません」
出川「なんでなんでしょう?」
本人の中でもよくわからなかったようだが聞き込んでいくとあるロケがそれまでと違ったと思い出した。
出川「”内村プロデュース”でただ僕が『T字剃刀で髭を剃る』というコーナーが企画されて僕はこんなのが面白いんですか?って聞いたんだけど『いいからやれ!』と言われてやったらスタジオで大爆笑が起こったんですよね」

電波少年が”もっときついことで追い込め追い込め”となって行ったのをこの番組のディレクター(図らずも元電波少年のディレクターなんだが)がほんのちょっと普段と違うことを出川にやらせることで起きる”素”の面白さを発見した。足し算の演出を電波少年が徹底的に追求したとすれば引き算の演出によって違う出川の魅力が発見されたということだろう。
こうしてこの流れは次第にメインになり「イッテQ!」の”はじめてのおつかい”もこのトーンのロケ企画である。ちなみに「イッテQ!」の演出も電波少年出身者であり、最初の頃の出川ロケ企画が『ペットボトルロケットを背負って飛べるか?』と電波少年的テイストが残っているのが興味深い。

と言うことで「出川狩り」から30年。出川哲郎を濃い味で調理していた電波少年が終わり、素材の味を生かした調理方法で広く愛されるようになったから今の出川哲朗があるという結論に達した。そしてもちろんこの素材本人は「なんでこうなったかわからない」。言ってみれば「生涯リアクション芸人」と宣言しどんな要求にも全て真摯に答えようとしてきたその姿勢が出川哲郎の才能なのだろう。普通の人はポジションが変われば「もうそんなことはやらない」と言うところを出川は全くそんな気配さえも見せない。その決意、姿勢こそが天賦の稀有な才能なのだ。

本番収録と会員限定動画
https://denpa.wowow.co.jp/static/noauth/member_mov.html
(数日後公開予定)が終わってスタジオから出る出川哲郎に数多くのスタッフが「お疲れ様でした」と声をかける後ろ姿にほんの少し大御所タレントの風格があったのが唯一の不安要素であると言うことだけは書き記しておこう。


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