電波少年W 中間報告
電波少年とは「今ないものを作る」が自分の定義だ。
ところが「電波少年W」に関して、昔の「電波少年」とは違うから
「電波少年W」に僕らが求めている事と内容が違う!
僕らが「電波少年」に求めた物は、あの、楽しかった頃の「進め!電波少年」で、ワクワクしながら観てたあの感情で、「電波少年」の名前を付けるなら、そうして欲しい!僕らが大好きだった「電波少年」じゃない。
と言う書き込みがコミュニティに寄せられたりする。
さまざまな形の作品って『作られて送り出されたところで見ている人のものになる』と言う言い方がある。その通りだと思う。映画、小説、絵画、論文でさえもみんなそれぞれの受け止め方で作者の意図したものと違うものを感じたりする。作品が一人歩きする。それがものを送り出す結果としては正解なのだろう。そういうものだ。
その中でもテレビ番組は親切?だから受け取られ方はかなり似ている。クイズとか情報番組とか受け取られ方という言い方の方がおかしい。
その中で電波少年は10年半やっていたからどこから見ていたかで実はその姿が違う。好きだと言ってくれる人もずいぶん色んなところを好きだと言ってもらっている。まあでも”もう一度見たかった”と切望されたのは本当に嬉しいことだ。この投稿をしてくれた人の中の「電波少年」はその人にとって大切なものだったということがわかる。
しかしだ。
でも本当に「なぞる」のは失敗する。経験がたくさんある。
テレビ番組は作者がはっきりしないところがあるからリメイクを本人または違う人でやった例がたくさんある。もれなく失敗している。昔当てた本人がその気になって”昔取った杵柄で”やっても失敗する。勢いなのか時なのか?ゲバゲバやアメリカ横断ウルトラクイズ。特にバラエティは間違いなく失敗する。「ごっつ」だってうまくいかなかった。
なぞることによってあの時の勢いがなくなるのか。ドラマはリメイクに見えて実は新しいものを作るのでそう言うことはないようだが。
そんなことで「コミュニティから番組を作る」と言う挑戦をしている『電波少年W』なのだが。2回の放送、2回の配信が終わったところで道半ば、どころか10分の1来たかどうかと言ったところか?
ネットコンテンツにとってUIはかなり大きなコンテンツの思想そのものと言ってもいいものだとようやくわかってきたのだがそこが目指すものと中々一致しない。だから投稿が立体的に見えて来ないので議論や意見が散発的になる。でもそれも来週には少しずつ改善されるはず。
また投稿の集積が可視化されることが必要なのだが3月いっぱいかかりそうだがそれも実現されるべく作業に入っている。
大きいのは投稿という一つ一つが全て違う方向を向いているものをどう受け止めて消化すればいいか?に体が慣れていかない。この「受け止める」という方向が多分違うのではないかと思い始めた。コミュニティから作るのは「受け止める」ではなく「一緒の方向を向く」ということだろうと思う。対面している今の形が違う。これも「一緒の方向を向く」企画を再来週には発表できるはず。
これらの気付きも「コミュニティから番組を作る」ということで肚を決めたから。確かに対岸も捕まる先も見えないところで泳ぎ出した不安感はずっとある。どこにも着かないかもしれない。でもそれは「アポなし」も「ヒッチハイク」も「懸賞生活」も同じだ。今いる岸から泳ぎ出したから人のいないところに着いた。
そしてもう一つスタートしようという企画を思いついた。
きっと誰もいないどこか新天地に着くはずだ。