電波少年が最も打切に近づいた日
電波少年が終わって20年余り。20年と言えば生まれた子供が成人するってことだからホントに「むかしむかし」のお話にもうなっている。
だからもう言っちゃっていいだろう。もう時効なんじゃないの?
ってことでやってみた企画なのですが面白かったのは全員が自分で記憶を修正していると言うことでした。
これは1995年の春の話だと言うことはハッキリしている。4月か5月。
地下鉄サリン事件が1995年3月20日でその二日後警察はオウムに対する家宅捜査を実施した。
これ以前に青山の事務所や亀戸の工場に取材に行っていた電波少年はブレーキを踏むことなくこの地下鉄サリンの後もオウムへのロケを続けた結果このような「打切りに最も近い日」を迎えることになるのだが・・・
その中身はビデオで見てもらうことにして
この頃の僕の心境を思い出してみようと思う。
電波少年が始まったのがこの3年前の1992年7月。3ヶ月のツナギ番組のはずだったが当時の偉い人の息子の「今、日テレで面白いのは電波少年」の一言で続行することになって、でも僕はそれまでの番組の作り方であった”守り”に入ったら負けだと思って制作局長に「こんなことやっていいと思ってるのか〜〜?」と怒られても「じゃあ今週から違う番組やってください!」と言うぐらいキレキレのノーガード、肉を切らせて骨を断つ戦法。ブツブツとこの頃僕が呪文のように呟いていたのが「右も左もぶっ飛ばせ!」で近寄ってくる人間を全部ぶん殴ってやるくらいのテンションで電波少年を作っていた。
しかしこの1995年1月。僕が躊躇ってロケ出動できない大きな事件があった。1月17日の阪神・淡路大震災である。神戸の街中から火の手が上がっている映像を見て何も思いつかなかった。「いやいやこれはバラエティが近づいてはいけないものだろう」と自分の中で結論づけた。
結果電波少年でこのことに関するロケはしなかった。少なくとも直後は。
しかししばらく経った時にのちの長野県知事の田中康夫氏がその震災が起きた日に原付バイクで何の当てもなくとにかく現場に向かっていたことを知る。結果できることのボランティア活動をした。正直「負けた」と思った。なぜ松村とスタッフが一歩でも近くに行き出来ることをすると言うアクションが起こせなかったのかと大いに悔いたことを覚えている。
その2ヶ月後に地下鉄サリン事件は起きた。何とか電波少年で行けることはないか?考えた。そして地下鉄サリンとオウム真理教の関係は確定ではないがそのトップである麻原彰晃がどこにいるかわからない、彼から話を聞かなければ進まない、と言うこう着状態に入った。
「ここだ!」と思った。とにかく麻原彰晃を見つけ出そう。もうすでに海外に脱出したという話もあるがあの上九一色村のどこかのサティアンにいるのが濃厚だ!犯人かどうかは警察がやることだが誘き出すことは電波少年がやってもいいだろう。そう考えた。今のテレビマンたちは間違いなくそんなことは考えないだろうが当時の僕はそう決断した。
そしてこの全編生中継スペシャルが計画され実行に向かって動き出した。
このビデオの中で
僕が実行前にスタッフに「サリンとかVXガスが撒かれて危険な目に遭う可能性の高い中継だ。だから嫌なやつはこの場から去ってくれ。強制参加ではない。でも参加してくれる奴はこの中華料理屋で好きなものを腹一杯食べてくれ」と言ったというコメントがある。でもそんなことを誰も覚えていなかった。そんな事はなかったのかもしれない、と思った。そんな事をしたかった!この思いが“そんな会をやった”と記憶が修正されたのかもしれないと思った。
ディレクターは二人とも「いやその頃のオウムはそんな深刻な状態ではなかった」と記憶していた。でもこの3月の事件の二日後の強制捜査。それを考えるとそんなはずはない。これも「そうであって欲しい」と言う気持ちから記憶が変質したのだろう。
現場プロデューサーは「土屋さんには悪いけど僕は絶対に無理だと思っていた。できない、中止になると思っていた」と言った。これもその時僕はそうでありたかった、と言う事なのではないだろうか?
28年前の「電波少年が最も打切りに近づいた日」
もしあの時中継車の発注を受けた映像センターの担当者が報道に「本当にこんなことやっていいんですか?」と問い合わせていなかったら?電波少年が打切りになっていたら?
少なくとも翌年の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」と言う企画は実行されず今の有吉は別の人生を歩むことになっただろうし、なすびも懸賞生活に挑むことなく違う人生を歩んだのだろうと考えると、そちらのもう一つの「電波少年が打切りになった世界線」も覗いてみたくなる。