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「あたらしいテレビ」と言うタイトルのNHKの番組に出た

最初に企画書をもらった時に「すごいタイトルの番組だな」と思った。
「テレビ」と言う単語と「あたらしい」は今一番ミスマッチだと思ってた。オワコンと言われている「テレビ」があたらしいって…でもこのタイミングだから「あたらしい」になるんだよ!って言う趣旨だったのか?結局聞けず仕舞だったけど、今でも不思議なタイトルの番組だなあと言う思いは残っている。
どんな番組だったのかは「NHK+」だか「NHKオンデマンド」かで見てもらうとしてこの出演とその前後に考えたことを書いてみようと思う。

テレビは“今”だ

前から思っていた訳ではない。でもこの新型コロナと言う未知のウィルスが中国で生まれ世界中に広がっていく中で「今の状況」が最重要で、それをどう解釈するか?そして次の手をどう打とうとしているか?この「今」の一次情報に一番近いのがテレビの生放送、生中継であるとなった時に「テレビが放送している今」の重要さを感じたのだ。そしてそれが千万単位の人に同時に届けられる。ネットも一次情報につながるのだがどちらかと言えば、その発表に対する解釈、対論(それこそ専門家からそうでない市井の人までの)がストックとしてその主たる仕事になっているように感じた。日々変化するフローはテレビがその取材体制も含めその役割を果たした。
「三密」とか「クラスター」「ロックダウン」とか今までの人生で聞いたこともない言葉が”当たり前の言葉”にどんどんなっていった。この毎日の変化の中にいるのがテレビだった。何を放送して何を放送しないのか?それがとても大事なはずだった。いい判断もあったがあれそれ違うんじゃないか?と言う判断もあった。でもそれもこれもリアルタイムの渦中の判断だった。そんな中「ニュースエブリ」の藤井の言葉が好感をもって迎えられている現象も起きた。
テレビの中の人の言葉が好感を持たれるなんて!
でもそれこそが「テレビが今の渦中にいる」ことの証明だった。
Netflixの「“新型コロナウィルス”をダイジェスト」もこの早さであのクオリティは驚きだったけれどやっぱり日々変わる”今”にはならないのだと思わされた。InPutがテレビでOutPutがネットな感じがした。レディー・ガガのキュレートの元に行われた「One World: Together At Home」チャリティー・コンサートも素晴らしいアウトプットで世界中にYoutubeで配信された。
テレビはそんなカッコいいことできず狼狽えながら時には間違いながら「今の渦の中にいる」と言う役目をしているように見えた。
そんなことを感じていたから「今という渦中にいるテレビよ、テレビマンたちよ、その責任を果たせ」というメッセージを送りたかった。一人でもそのことをちょっとでも感じて明日のテレビを作ってくれるといいと思った。そしてそこで何を放送するか?何を放送しないかの判断が「明日の世界」を作るもとにもなるのだと思ったから。ニュース、ワイドショーだけではなく「明日の世界」への不安や困難にどう立ち向かうのかを助けるのはドラマやバラエティの娯楽・芸能の役割だしまさに今から大きな役割を果たすはずだと思っている。
僕もワイドショーのディレクターをやっていたからわかる。少しでも見ている人に深く届くように放送したい。だから刺激的なカットを使いたくなる。トイレットペーパーが棚から消えて奪い合っている映像は刺激的なのだ。でもワイドショーもそれを今放送すべきではなく倉庫に山ほど積まれている映像を放送すべきだと早々に気がついたと僕には思えた。そうやって「今何を放送すべきか?」を更新しながらテレビは放送しているように思えた。でもやっぱり過ちも犯した。こういう論旨でビデオを作るという流れで、そうではない人のコメントを編集して逆の印象を持つように繋いだ。これもテレビのワイドショーだけでなくニュースだって何十年もやってきた常套手段だ。街頭インタビューの街の声だって「誰のどの部分を使うか」はやはりディレクターがどうチョイスするかなのだ言うまでもなく。「だからテレビは真実を伝えていない」と言うのは違う。それは真実とは何なのかと言うところから話を始めないといけない。
これらのことは昨日までのテレビでは合っていたのかもしれないが”今”はやってはいけないのだ。だからこの時にテレビは改めて新しくなるのかもしれない。いやこの時に正しく生まれ変わらなくてはテレビはテレビでなくなるのではないかとさえ思っている。テレビはこの時に「テレビは一体何なのか?」を問い直す機会をもらったのだと思う。
その太い背骨の部分が「テレビは今」なのだと思っている。

テレビは“みんな”だ

もう一つだけ書きたいことがある。テレビはその出処から”みんな”に届ける、”みんな”に愛される、だから”みんな”が見る、ものを追求してきた。
終戦から高々8年後に生まれたテレビは戦後復興とともに育っていったしそれは日本の成長とテレビの成長はリンクしたのだった。だから”みんな”が好きなプロレス、みんなが好きな美智子妃のご成婚パレード、みんなが好きなお笑い、ドリフ・欽ちゃんなどなど。そのベースにある戦後復興の地続きにあった高度成長期。日本の中に”みんな”があったから、そこに向けてテレビは作られた。僕が作った「電波少年」もアポなしやヒッチハイク企画はその時の”今”の”みんな”に向かって作れたから熱狂的に見てもらえた。
でもネットが出現して”みんな”は決定的に消滅した。それこそ様々なクラスターが出現して個人ひとりひとりが様々なクラスターに所属してその集合体がその個人になると言うのが今の姿だろう。テレビが向かっていった”みんな”は完全に消えて無くなったと思われた。それがこの新型コロナで出現したのだ。”みんな”の命が脅かされるという日々がまさかやってくるとは。
だからテレビはどうしてもこの”今”の中でやるべき役目を果たさなくてはならないと思えてならない。何十年もの間先人たちが作り続けてきた「テレビ」の最後の存在意義を果たす時が今来ていると思えてならない。

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