電波少年という番組
来年1月16日から「電波少年W」という番組がWOWOWで始まる。どんな番組にしようか?毎日ずっと考えている。
アレ?なんで「電波少年」って番組始まったんだっけ?と思い返してみる。1992年5月末、日本テレビの編成部の加藤光夫編成部長に呼ばれた。
「土屋!明日までに何でもいいから企画書持って来い!枠は日曜日10時半!」
ウッチャンナンチャンがフジテレビの映画をやるので3ヶ月休みたいと言っていると。色々説得したけどどうしても無理だと。だから3ヶ月何でもいいから繋げ!
このときのフジテレビのプロデューサーは吉田さん。後に「電波少年の生みの親は僕だ!」と言われるのだが本当にそうだ。このときフジテレビの映画で3ヶ月日本テレビのレギュラーを休むなんて無理を通そうとしなかったら電波少年は生まれていなかったのだ。そうすると僕はそのまま「生ダラ」のプロデューサーを続けていたのだろう。ウッチャンナンチャンとも「世界征服宣言」を始めることにはならず、つまり「ウリナリ!」は始まらないことになり、ひょっとすると1994年に日本テレビは視聴率で13年続いたフジテレビのトップを奪還するのだがそれも起きなかったかもしれない。ポケットビスケットは生まれなくなり千秋はバラエティタレントとして埋没していたかもしれない。ブラックビスケットがなくてもビビアンは今の位置にいたかもしれないが。
電波少年が始まらなかったのだから猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅という企画はなくて有吉は東京に出て来たが売れることなく広島に帰ることになっていたかもしれない。僕もヒットメーカーだ今みたいにレジェンドだの言われずにあのときの精神状態を考えると転職していたことも十分考えられる。違う業界のサラリーマン?今頃定年になって次の求職中かも。
人生は自分の手で切り開けみたいな事を言うが人生を大きく左右するチャンスは自分の意思とは関係なく突然そして「チャンス」と言う衣装を着ている事を隠してやってくる。そしてそのことはたくさんの人との出会いを変え、たくさんの人の人生に影響を与える。
いくつもの「あったかもしれない人生」がある。若い人には今以降いつその「チャンス」が知らん顔して前を通り過ぎるか分からない。いや僕のような初老の男にも今それが通り過ぎているのかもしれない。
できることは全部に手を伸ばすこと。
全部の打席で自分なりの120%のフルスイングをするしかない。
そいつは楽しみだ。人生は限りなく面白い。