領分の内でもがく
信仰度★★★★☆
1.悩みのたね
ここんとこの私の悩みのたねは、ある方のちょっと困った事情です。その人自身は困っていないのですが、その人の親や家族はえらく心配しています。私とも近い関係なので、見ちゃいられないです。
なんとか心を切り替えてもらおうと、連絡を取り、話しかけて、私なりに説得を試みるのですが、今のところうまくいってません。
そのような折、日課の路傍講演(街頭で天理教の話を演説する行為)で話す「かしもの・かりもの」の話が、普段と違った角度で私自身に刺さってきました。
2.心の自由は私のものであり、人のもの
「心一つが我がの理」
人間の身体はその人自身のものでなく、神さまより貸してもらっている。死ぬ時にその身体をお返しする。やがて、また新しい身体を借りて生まれ変わる。これを繰り返して人間は現世にて極楽(陽気ぐらし世界)を見る。
十分ではないですが、これが天理教の教えの根っこの部分「かしもの・かりもの」の話です。
そして、この話の裏側にある大切な点が、「身体は神さまからの借り物であるが、それを動かす心だけは自分のものとして許されている」ということで
これが、先程提示した「心一つが我がの理」であります。「心の自由」といってもいいでしょうか。
で、この話を日々くどくどと説いたり、聞かせてもらったりとしているのですが、
その際にこの「心だけは自分のものという」ことを、私自身のこと、あるいは、語りかける対象の「あなた自身」のこと、という側面でしか考えていなかったなぁという反省を得たのです。
つまり、それぞれに心の自由が与えられているということは、それは私の自由であるとともに、隣の他者の自由でもあるという、至極当たり前のことを置き去りにしていた気がしたのです。
「私たちの心は本来自由なんですぅ〜わはは〜」ということが、「誰かの自由な心を、人は自分の力のみでどうにかすることはできない」ことを担保してるんですよね。
これはべき論で言っているのでなく、そういうものだという意味で述べてます。
そりゃそうですよね。
だから、自分以外の誰かの心を変えるということは、自身の領分の外側の話なんです。
「だからさ、自分は自分、他人は他人、人それぞれだからお互い頑張ろうね」という話をしたいのではありません。
神話を引き合いに出すのは控えますが、人間ははじまった時から複数※1です。この世界に人間が常に複数いるのは、一個体では存在意義を満たせないことを意味していると思います。
だから、「人それぞれ」は、暫定的な過程ではあれ、完全な終着点ではないと思ってます。
横道それましたね。
3.互いに自由だからこそ悩みが生まれる
さて、人間が互いに神さまより許された心の自由を持っていても、それでも互いの心の動きに影響されて生きているのも私たちの日常的姿です。
隣の席の弁当のハンバーグを欲しがったり、金持ちを見て羨んだり、人一倍働いて怠け者を養うことを惜しんだり、自分にとって都合の悪いことをする人に腹を立てたりします。
他人の心はどうすることもできないから、それがために悩んだり苦しんだりもします。
ここにいたって私は、あぁ、だから人は祈るのだなと思いました。他人の心はどうすることもできない。さりとて、このままでは、私自身もままならない。悩みの要因が外にあっても、悩み自体は自分自身の心にあるわけですもんね。
だからこそ祈るのだと。
その結果、相手の心が不思議にも変わるのか、自分自身がその相手を受け入れられる心になるのか、そんなことはわかりませんがね。
4.領分の内でもがく
そういうわけで、冒頭述べた通り、私にも願いの筋が一本できたので、最近、祈る時間、おつとめの回数が増えました。自分の力ではどうにもならないけど、領分の内でなら多少はもがこうかなと。与えられた時間をどう使うかは自分の領分なのでね。たすかってもらいたいです。
心の自由がある限り、人の心がいかんともしがたい限り、祈る行為が無くなることはないのだなと思いましたし、祈りの場所、参り場所を守っていくことも、それなりに意義あることだと感じるこの頃です。
人が祈りを捧げる意味は他にもたくさんございましょうが、一つ、誰かのために悩んでいる方の一助になればと書きました。
※1
あくまで天理教の話ですが、神さまが人間を創造される時は、まず男のモデルと女のモデルをそれぞれこしらえるところから始まってます。なので、最初から複数と言ってます。