26.トラスト②
信仰度★★☆☆☆
前回の続きです。
私が例の占い師を信頼した最後の理由は、私をよく観察してくれたことでした。
基本的に人間は自分に興味を持ってくれる人、理解しようとしてくれる人に対して親しみを感じます。私の心にも似たことが起こっていて、「この人は私をよく見てくれている」と親しみを感じたのだと思います。
医学的正しさと人間の求める満足の齟齬
さて、この分析に立った時、私は数週間前のある方との会話を思い出しました。
その方はタニグチさん(仮名)という70代の女性です。昨年かかりつけの病院で、胆石が胆管に詰まっている可能性を指摘されました。
胆石が詰まる痛みは「身がよじれる」とか「うずくまって呻く」とか表現されます。要するにメチャクチャ痛いそうです。
すぐに大きな病院を紹介されました。慌てて病院に飛び込んだら、わずかな検診の後、即「手術しましょう」となり、その日のうちに手術となったそうです。
その日を振り返って、タニグチさんは、「あまりのドタバタに気が動転した。専門家とはいえ、出会って1時間、関係もろくに築けていない状態で手術というのは不安で仕方なかった」と仰っていました。
タニグチさんは続けます。「画面に映る検査結果ばかりを眺めて、ほとんど生身のこちらの体を確かめず、治療を決められることにいつも不安を感じる。
でも、私は素人だから、たとえ不安でも任せるしかない。病気になるタイミングや、いい医者、いい病院、いい治療に当たるかは、本当に運だ。」
結果として手術は成功しました。ところがその後タニグチさんは体調を崩しがちで、「あの手術のあと今までなかった病気がどんどん見つかっている。あの手術で自分の体質が変わってしまったのではないか」と言う始末です。
医学的な処置がどうだったか。その是非ははっきりとは分かりませんし、その後の体調との因果も、何も分かりません。
ですが私の前にいるのは、結果として医学的な正しさに翻弄されたひとりの人間です。おそらく医者は使命を全うした。目の前の病理も取り除いた。しかし、医学の説得を受け止めきれず、見えない不安や不信を募らせる人間が残されている。
いったい人間はどうなれば満足し、どうなれば幸せを感じるのかということを突きつけられたような、感覚がありました。
信頼の判断材料
相手が専門家、こちらは素人。この場合詳しいのは向こうですから、提示されたものを素人が対等な立場で検討することは難しいです。
ですが、タニグチさんが感じた不安感。そして、前回の私の占い師に対する信頼感。これは同じ根っこから生まれるものでないかと思われます。
それは、目の前の私という人間にどれほど関心を払っているのかということです。私たちは素人ながらに、そういったことを観察し、信頼できるかの判断材料にしているのです。
翻って考えるなら、誰かを信頼させたければ、とことん相手に興味を持ち、関心を払い、「私はあなたをとても気にかけています」という態度を伝える必要がありますね。
他人の信頼を得ることは並大抵ではないです。でもその道のりはきっと関心を払い、寄り添う姿から始まるのでしょう。