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the othersを見つめる
信仰度★★★★★
どうにもこうにもご無沙汰してます、わたがしです。かりものの身体を通して最近神さまに教えてもらったことについて、ちょっと書かせてもらいます。
1.祭典雅楽でのアクシデント
先日、大教会の月次祭に参拝した日のことです。参拝というか、雅楽の役目に当たっていて、祭儀式に登殿していました。
うちの大教会では祭典の時に雅楽を奏でます。私は時折その奏者をつとめることがあります。その月、私は箏(こと/そう 雅楽で使う琴みたいなもの)に当たりました。箏に当たるのはその時が初めて。デビュー戦ですね。
まだまだ練習したてでおぼつかないので、とにかく間違えないように必死です。
音楽的なことは詳しくないのですが、どうやら雅楽における「糸もの(箏や琵琶)」の役割はなかなか重要らしく、ポロンポロンポロンと弾く速度によって、曲全体のリズムを刻む役目があり、加えて、他の菅楽器との音程も合わす必要があるので、リズムと音程どちらにも注意を払う必要があります。そのため、演奏中はとにかく耳を使います。
箏は事前の調弦が命です。私は自分の音感に自信がないので、機械や音程アプリに頼りっぱなしなのですが、琴柱を手で動かしながら、とにかく綿密に一本一本の弦を調節します。
雅楽で使う箏は13本の弦があり、奏者から見て遠くの弦ほど音が低く、手前に来るにつれ高くなります。(調子にもよりますが、その日の一番高い弦は黄鐘だったので、基準ピッチ430HzのA5です)
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月次祭当日、祭儀式が始まり、雅楽の合奏が始まりました。かなり緊張してましたが、最初のうちは大きな問題もなく弾けていたと思います。
違和感を感じたのは、高音の弦を弾いた時です。
ポロン、ポロン、ポロン、と弾いたつもりが、ポロン、ポロン、カスッ、てな感じで、13本のうち手前2本の高音の弦が、確かに弾いているのに聞き取れなくなったのです。
おかしいと感じて耳を近づけるも、周りの合奏にかき消されて聞き取れません。結局、合奏中の私は高い2弦をほとんど聞き取れないままでした。
祭儀式のあと、慌ててその2弦を弾いてみたところ、今度は聞こえました。もちろん前日一人で調弦した時も聞こえていました。どうやら周りが静かな時は私の耳でも聞こえるみたいです。祭儀式中は後ろで他の管楽器の爆音が聞こえていたので、それで高音が聞き取れなかったようです。
そんなアクシデントを体験をして、私は久しぶりに、「あぁやっぱり右耳は、、」と昔のことを思い出しました。こんなことがあるまで、長らく忘れていたのですが、実は私、幼い時のある事故のおかげで、右耳の聞こえが少し弱いのです。
2.耳掃除中の事故
10歳の時のことです。
当時私はいわゆる耳掃除ジャンキーで(いわゆらない)、ほぼ毎日耳かきを取り出しては、狂ったように耳掃除をしていました。最近よく言われますが、耳かきって結構外耳道を傷つけやすいから、あんまりやらない方がいいみたいですね。しかし当時の私は、耳かきが外耳道を引っ掻くあの感じがたまらなく快感で、糞が取れようが取れまいが、暇をみては耳掃除をしてました。狂ったガキです。ちなみに綿棒では刺激が物足りないのです。耳かきが良かったのです。
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その時も部屋で耳掃除をしていました。隣の居間から誰かに呼ばれたので、愚かなことに、右耳を掃除しながら返事をして振り返りました。その時に、隣に弟がいたことに気づかず、振り向きざまに、耳かきを持った手が弟の体とぶつかりました。
その衝撃で耳かきがズボッと、私の耳の奥に刺さってしまったのです。
激痛です。
先端に綿毛を搭載した耳かき、よく見かけますね。まさにあれを使っていたのですが、刺さった時はその綿毛から3、4センチほどが耳から出てて、あとは全部ぶっ刺さってるような状態でした。
当然すぐに泣きついて、母親に耳かきを抜いてもらいました。不思議と激しい痛みはそれほど続きませんでした。左耳は無事ですし、音も全く聞こえないわけではなく、それほど悪い状態だとは思いませんでした。既に夜だったこともあり、耳鼻科に行くのは明日にしようとなりました。
翌日、朝から耳の奥あたりにじんじんとした痛みが出てきました。聞こえも悪くなってきて、右耳だけ水の中にいるようで、くぐもった音しか拾えません。
診察の結果、鼓膜は半分以上破れており、その奥の内耳や神経も傷ついていました。鼓膜は次第に治るが、聴力が完全に治ることはないと医者に言われました。
それから半年くらいは聴力が元に戻らず、その後も一年ほど治療のため通院をしました。治療と言っても、何をしたのかもはや覚えてません。なんらかの薬は処方されていましたが、自然治癒に委ねるところが大きかったと思います。
幸いなことに、半年から一年くらいで次第に鼓膜も塞がり、日常にはほとんど支障のない程度に聴力は回復しました。
ただ、高音域の聞こえは相変わらず悪いままで、20年経った今も完全には戻っていません。医師からも、パイロットとピアノの調教師の道は諦めるよう言われました。無念。
3.不自由だから感じられる喜び
時間を現在に戻します。
今回の箏を演奏しててのトラブルは、そんな昔の事件を思い出すきっかけとなりました。私にとっては、普段自分がそんなことも忘れて、不自由なく生活できていたことを教えてくれた出来事となったので、「あぁ、ありがたや」と、素直に嬉しかったのです。大教会の祭典日に、そんなことを思い出させてくれるなんて、神さまなかなかニクい演出ですねと。
演奏の時こそ聞こえなくて困ったものの、そんなことは、普段私が不自由なく身体を動かせていることを考えたら、小さい小さいことです。
こんな特殊な状況(周りで音がガンガン鳴っている中で高い音を聞き分ける)になるまで事故のことも忘れたままでいれたわけで、それこそが私の耳が日常生活に支障なく聞こえていた証です。
そして、こうして時々思い出す程度に不自由が残っている。これもまたありがたいことです。10歳の時に、もしかしたら片方の聴覚を失ってしまう可能性もあったのに、不思議と軽く済んでいる。
確かに今でも高音は聞き取りづらいけど、左の耳が補ってくれている。
私には、目が見えるありがたさを心から実感することは難しいですが、耳が聞こえることのありがたさは、時々不自由に出くわす度に感じることができる。
その日を思い出すたびに嬉しさが込み上げます。
というわけで、ここで私の体験話は一区切りです。以降はこの一件から想起したあるおふでさきのおうたについて書いていきます。お時間許す方はどうぞ。
4.私見 おふでさき第九号36について
おふでさきに、次のおうたがあります。
このたびのなやむところハつらかろふ
あとのところのたのしみをみよ (九-36)
註釈で記載される通り、これはこかん様の身上を台としての話とされています。
三十六-三十九、註 この四首はこかん様に就いて仰せ仰せられたものである。
ここでは、註釈や解説書による通例的な解釈を確認しつつ、あくまで私見の範囲で、このおふでさきについて、もうひと筋の解釈を添えたいと思います。
ポイントは、「このたび」と「あと」の対比をどう見るかということです。
素直に読むならば、多くの解説書がそう述べているように、「このたび」と「あと」とは時間軸での対比です。
この度の身上の苦しみは実に辛かろう。しかし、先では楽しい、結構な日があるぞ、と励ましておられます。
このたびの悩むところは辛いであろうが、<これを越した>あとのところは楽しみ<があること>をよく知れ。(中略)これはこかん様の病について言われている
つまり「このたび」とは今現在、「あと」とは将来のこと。神さまと人間の決定的違いの一つは、時空を超えて物事を見渡せるかどうか。視界の奥行きが決定的に違います。
人間は過去と現在を近視的に見つめることは出来ても、未来をはっきりとは見通せない。神さまは過去と現在はもちろん、この先の将来どうなっていくかも見通すことができる。
だから、神さまが言う今どうあるべきかの諭しには信憑性が備わるのです。
みへてからといてかゝるハせかいなみ
みへんさきからといてをくそや (一-18)
ですから、件のおふでさきに関しても、今現在の苦しみ悩みは辛いだろうけれども、神の目には将来の明るい展望というのが見えるので、将来ある楽しみを見つめて、今を通りなさいと促すお諭しだと解釈できるのです。
で、これで十分かもしれないのですが、もう少し自分なりに掘ろうと思った時に、この「このたび」と「あと」を別の軸に据えて考えられないだろうかと考えたわけです。読者の方からすれば、突拍子もないなと思われるかもですが、そうしなければ、このおうたがややもするとこかんさま個人に向けた諭しと限定してしまい、現代の私たちへの諭しとしてなんだか迫ってこないなんていう味わい方をしてしまいそうだと思うからです。ご興味ある方はこの先もどうぞ。
5.「このたび」がoneで「あとのところ」が the others
童謡に、『アブラハムの子』という歌があります。
♪ アブラハムには7人の子 1人はのっぽであとはチビ
この歌の冒頭の歌詞です。ここでの「あと」の用法について少し考えたいです。これは「夕食のあと」などの「ある時点よりものち」という意味とは違います。この「あと」は、「のっぽである1人をのぞけば、残り6人すべてはチビ」という意味になります。よってこの場合の「あと」とは「ある特定の部分を除いたそれ以外全て」を指します。
「あと」の意味をこう捉えると、九-36の下の句が示す「あとのところのたのしみ」とは、「今現在悩みを抱えている箇所を除く残り全てに宿る楽しみ」と捉えることもできるのでは、という話です。
英語で言うoneとthe othersの関係と言ってもいいかもしれません。「このたびのなやむところ」がoneで「あとのところのたのしみ」はthe othersでもあるのです。
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今の悩み苦しみ、その一点のみを見つめるのならば、それは辛いことであろう。だけれども、その他の箇所を見つめてみるならば、どこも悪いところはないではないか、一点二点の悩み苦しみの他は、それよりも遥かに広範な守護があるばかりではないかと、そういうことも解釈しうるのではと思うのです。
もちろん、現実としてこんなことを病人の前で言えるかと言えばほとんど言えないでしょうし、言うべきでもないなと思います。それとは別の話で、あくまで自分が苦しみを越えて立ち上がる時の、その勢い付けにはなり得るという話です。
目先の苦しみ悩みばかり見つめる視点を少し外して、今生きていること、その全般を見つめてみると、そりゃ確かにこの世は御守護であふれています。
たとえば私の場合、ある状況下で人より音が聞きにくいという困ったことがあるにせよ、あとのところ、すなわちそれ以外では何不自由なく生きていられるということです。たのしみばかりなはずです。
私たちは借り物の世界に生きています。確かに、人によってより恵まれた体を与えていただいたり、そうでないこともあります。大きい小さいを言い出すと、いろいろ不満も出てくるのですが、あくまでベースとして、体を借りている、借り物の理を頂戴しているという意味においては、みな平等に、基本的な幸せを頂いている。
借り物の身体をどう感謝すれば良いのだろうと思うことはありませんか?私なんかは、実際感じるの難しいよなと思ってしまうんですけど、これについても、あとのところの楽しみ、何はともあれ壮健な「the others」を見つめて喜ぶ中に、芽生えてくるものなのかなと思った次第です。